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2010年 01月 17日

 後藤の技術集団に目を付けた前田家は、流石と言わざるを得なかった。徳川の世が安定してくると、文化の担い手としても後藤家の技術は脚光を浴び、技術者の移入は一層頻繁なものになっていた。彼等は京都、江戸、金沢と云うように、当初は一年毎に移動していたのだが、徐々に何れかに居を構えるに至っていた。
 加賀藩の後藤集団は浅野屋次郎兵衛、金屋彦四郎等によって采配され、脇後藤として越後から市衛門の系統を加えた才次郎の流れは、九谷鉱山・九谷焼の系譜に連なって行くのである。それは又秀吉、家康と続く後藤情報集団の加賀藩移行でもあった。
 三代加賀藩主前田利常は全てのことを承知の上で後藤家の導入を計ったのである。富山藩、加賀本藩、大聖寺藩とそれぞれに名を残す彼等の祖先たちの足取りは、利常公を中心とした緻密な連携策によってなされていった。彼等が利常を助け、そのことが徳川家を補佐するという二重性がそこにはあった。
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by hirai_tom | 2010-01-17 18:28

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