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2010年 01月 08日

群雄割拠の戦国の世に於いて、諸大名の求めたものは的確な情報であった。古くは、各地の修験場を渡り歩く山伏に始まり、風雅の道を求める連歌師、琵琶法師。服部氏と祖を同じくする猿樂師。これ等は皆、技術を隠れ蓑とした情報収集の手段と成りえた。
 信長の美濃攻略の為の瀬戸陶工の移動等を通じて、才次郎の家系は情報網を確立していった。美濃に源を発する後藤家の祖は将軍足利義政に認められ、初代祐乗が京後藤の礎を基くのだが、才次郎の系統は故あって鎌倉、美濃、越後と転々と移動し、織田信長の庶兄信広との縁の中で一向宗と対決していく。 
 後藤家の集団の大きさは、桃青には皆目見当がつかない。しかし、足利、織田、豊臣、前田、徳川と彼等の祖は技術を認められ、全国に情報網を広げてきていた。徳川期に入ると、後藤家の大きな流れは、京の上後藤、江戸の下後藤、金沢の加賀後藤と呼ばれていた。
加賀藩の後藤家導入は秀吉公の時からで、鉱山の発掘と貨幣鋳造が主目的であった。

桃青は才次郎の家系の尋常でない事、彼らを取り巻く集団が並のものでないことを肌で感じていた。才次郎の横顔は、右面には山師の持つふてぶてしさがあり、左面には細工師の持つ繊細さが見られ、それらが、眼光の鋭さと相まって不思議な魅力を漂わせていた。次々と駆け巡る桃青の推理をよそに、高いびきの才次郎は寝返りをうった。
江戸の朝は体中にトゲが刺さるように冷たかった。雨戸を開けると、早朝のざわめきと共に寒風が両耳を通り抜けて行った。才次郎の姿はすでになく、そこには雑踏の音だけがあった。

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by hirai_tom | 2010-01-08 00:13

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