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2009年 12月 25日

 正面の廊下を真直ぐ進むと瀟洒な庭、その庭をコの字型に廊下が仕切り、庭ごとに離れが設けられている。翁の通された部屋は一番奥の離れである。

 浴衣娘(ゆかたべ一)と呼ばれる十五、六歳の娘達が着替えを手伝いながら、
 「さあ、旦那さん方、旅の疲れは”山中のだら長湯”が一番ですよ」
 などと話しかけてくる。
 この街の旅籠には内湯はなく、湯元である湯座屋の周りを囲むように旅籠が建ち並んでいる。湯座屋は泉屋の目の前である。ゆかたべ一に浴衣を渡すと、三人は湯煙の人となった。山中のだら長湯とは言い得て妙である。入った時はそれほど熱くは感じないのでつい、だらだらと長湯をしてしまう。
 芭蕉はいつの間にか、この地に安らぎを感じ始めていた。どこからともなく追分調の地歌が流れてくる。

   はあ~あ~あ~あ
      わたしゃ おすみ娘~に 惚れて~は~ おおれ~ど~
                    座敷~雨戸で縁がな~い
      座敷~雨戸~で 縁は~な~い~け~ど
                    主と~わた~し~は 縁があ~る
                           さあ~ちょい~ちょいと

 哀愁を帯びた掛け合い歌に耳を傾けながら、翁は疲弊した身体をどっぷりと湯に浸した。湯煙が立ちこめる湯船の向こうには曽良と北枝の姿がもうろうとして見える。高窓から差し込む夜の光が、湯壺の中の小さなうねりに青白く反射し拡散していった。
 翁は目を閉じ、旅すがらひねった句を辿っていた。

 「山中や菊は手折らじ湯の匂い
     山中や菊は手折らぬ湯の匂い」
 九谷の才次郎には格好の手土産となろう。
 湯船から上がると、外には頬を紅潮した娘達が戸板にもたれながら、夜空に声を聴いている。ふる里、伊賀上野に近い上方訛りとこの湧き湯は芭蕉にとっては正に、桃源郷であった。

 “やまなかやき九はたおらじ湯の匂い”翁は意味あり気に含み笑いをした。
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by hirai_tom | 2009-12-25 14:45

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