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2009年 12月 15日

 岩場を下って行くと、こんもりと茂った大きな桂の木が視界を阻み、その向こうから人声が聞こえてくる。平地に降り立つと、二十人ばかりの男女が、声高に笑い合っている。
 「さあ、此方で一服しましょう。今、美味しい湧水を汲んでまいります。」
 
 苔むす岩盤一帯を包み込むような大樹の脇には地蔵尊が祀られ、削られた岩間には竹杓が置かれていた。北枝は湧水の入った竹筒を曽良に渡すと、照れるように何かを喋った様だったが足早に戻って行った。
 やがて、数人の嬌声が小高く響き、北枝はもうその笑いの中にいた。
行き交う人達は皆、この湧水を飲んで行くようであった。女達は、山中湯で朝市を済ませた橋立浦の海女らしく、ここでは、近郷の野菜売りのじいさん達との情報交換の場となっているらしい。数人の小奇麗な女達は、浴客の出迎えだろう。上方訛りの口調で語られる悠長なやり取りは、翁の心を和ぐませていた。振り返ると随分長い旅であった。ようやく目的の地に着いたという感慨が翁にはあった。
あれから早、二年の歳月が流れていた。才次郎は一日千秋の思いで待ちわびているに違いない。再会の光景を思い浮かべる翁であったが、遠雷と周囲のざわめきがいつまでもそれを許さなかった。いつの間にか、山手の方に湧き上がった黒雲が、みるみる、此方に向かって覆いかぶさって来る。雲間の光の中に白い雨脚がとらえられた。男女のざわめきが大樹に吸い込まれていく。
「御師匠。早く此方へ、此方へ。」
桂樹の中から北枝が手招きをしている。
芭蕉も又、桂樹の人となった。北枝は、女達の濡れた裾のみだれを、何やかやと気遣って声高に笑っている。
やがて、明るさがよみがえると、雨水が大樹をつたわり、じわっとした北陸路特有の湿っぽい気配が、周囲一面に充満していった。
「なあに、通り雨ですよ、さあ、曽良様元気を出されい。すぐにも湯の香が匂ってきますぞ。お泊りの泉屋までは、小半時もあれば充分でしょう。」
 北枝は浮き浮きしていた。芭蕉もまた胸の高鳴りを感じていた。桂樹越しに空を仰ぐと、気持ちの高揚を押さえるかのように、ゆっくりと腰を上げた。
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by hirai_tom | 2009-12-15 14:43

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