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2010年 05月 19日

「我等後藤一族には徳川家・前田家、両家が必要で御座いましてな。利常公は我等の事は承知で泳がして下さった。」
「犠牲者は無かったと。」
「否、何事にも犠牲は付き物で御座います。能州では、田川も下村も御算用場奉行の稲葉左近様の許で手足と為って動いており申した。そうした事が認められての、辰巳用水工事で御座いました。左近様は、能州での事業からの捻出で資金繰りを成されておられました。」
「難儀の工事故、資金の調達には苦労なされた事で御座ろう。」
「左様です。去れど、切れ者故、吾等の“秘“の部分まで知られまして。」
「吾等が一番恐れる処じゃな。」
「工事も終わり、一段落過ぎた処で“公金流用”の資料を整え、両名で訴え出ました。」
「稲葉左近様と云えば中々の御人であり、利常公の信任も厚かったと」
「左様。之には、利常公も弱り果てられ、暫くは蟄居を命じて居られましたが、已む無く切腹の仕儀と。」
「詮無き事であったな。」
「我等にも使命が御座います。」
「後藤の役目とは、加賀藩の埋蔵金かな」
「左様ですなあ、其の後は徐々に南下し、大聖寺藩へと。」
「九谷は一山越えれば越前と云う事か。」





辰巳用水 1631(寛永8)年、金沢城下の火災で、城中の大半及び町方数千軒が焼失した。其の為、三代加賀藩主前田利常公は板屋兵四郎に城の辰巳(東南)犀川上流から金沢城への導水を命じ、1632(寛永9)年、用水は完成した。
 城内への導水には百間堀を通過する為「伏越の理」(逆サイフォンの原理)を利用し、木管を埋設している。
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by hirai_tom | 2010-05-19 10:04

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