古九谷余滴  ⑥ー①  「古九谷」は誰が造ったか?   

2012年 02月 27日

      古九谷余滴               ⑥ ー ①                                                        
  先日、山中ロータリクラブで講話を頼まれ、昼食時に「古九谷」は誰が造ったか?で話しました。           
 今日、日本各地の美術館を訪れ「古九谷」は何処で造られたのですか?問いますと、大多数の館長なり学芸員の人達は、肥前(佐賀県)で造られたのではないですかと答えるでしょう。これが現実であります。     肥前には九谷という地名も窯もないのですが、何故、こうゆうことになってしまったのでしょうか、私は学者と言われている人たちの責任は大きいと思っています。
 邪馬台国論争がそのよい例です。彼らは自説に有利な発掘を繰り返し、九州説と畿内説で言い争っています。この論争は、東大と京大がなくならない限り、永遠に続くと思われます。本来なら、今日まで決定打がないのだとしたら、どちらでもないところに真実があるのでしょう。
 土台、謎となるには、それだけの理由がある筈です。秘密にしなければならない訳があったのです。つまり、出土物だけでは肝心の謎は解けないということです。しかし、御身を大切にする彼らの世界では、物証のない伝説や神話は通用しません。
 「古九谷=古伊万里説」に関して言えば、彼らのスタートは発掘からであり、「古九谷」の芸術性から入ったものではない訳です。「古九谷」はアートですから、一枚の絵皿で評価しなければ意味がありません。出土品の破片の一部で「古九谷」か”古九谷風”のものかは区別ができません。
 「古九谷」は肥前の何らかの技術を得て作り上げたものですから似たようなものは出土します。そこで彼らは”古九谷風”のものを「古九谷様式」として「古伊万里」の範疇に組み入れてしまったという訳です。しかし、考えて下さい!「古九谷」は現代で言うピカソ級の人が造った焼物です。ピカソの作品に「ピカソ様式」と名付ける
馬鹿はいません。「古九谷様式」も「ピカソ様式」もどちらも「古九谷」でも「ピカソ」でもない訳です。つまり、美術館に「古九谷様式」と明記されていたら、それは”古九谷風”のものであり、「古九谷」の偽物ということになります。 
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# by hirai_tom | 2012-02-27 22:14

13-5   

2010年 07月 19日

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菅生石部社、・水守社を抜け、鍛冶町にはいる。立派な門構えに甍が二棟、頭を出している。
「手前が願成寺、隣りが本善寺です。何れの鐘楼にも“藤原朝官後藤才次郎定次”の鐘銘が入って居ります。」
「後藤は炉を使う物は何なりと、と云う事か」
「此処の物は福井の方で造らせました。“芝原”と云う所に鋳物の集団が居ります。」
「其処にも拠点が」
「其処が又面白い」
「技術集団には矢張り、伴天連の技術が」
「其処は又、後程に」
「処で、父君権左右衛門が亡くなられ、才次郎と御主等の代に入り、九谷の絵付けも随分と肩代わりをしたようじゃが」
「左様。才次郎にとっても、父の死は答えた様じゃ。」
「其処で、絵付けは久隅守景の手を借りたと云う事か。」
「まあ、守景一人と云う訳ではないが。」
「去れど、絵師を幾ら揃えても、中々先代には成るまい。」
「まあ、そうでもあるまい。去れど、時代と云うものか、さて、九谷やきの絵付け技術は有るのだが・・・。此れが何か、先代とは違ってくる。」
「左様左様。御師匠と吾等の様なもので、此れは移管し難い。あっはっはあー。」
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# by hirai_tom | 2010-07-19 12:17

13-4   

2010年 07月 18日

芭蕉の同行者・曽良の一つの役割は城下の幾つかの寺社を拝しながら藩の情勢をつかむ事に有った。徳川家との姻戚関係をより深めている加賀藩に関しては念入りに成らざるを得なかった。
かって此の地は一向宗の持てる国であり、此の地を治める前田家は並みの苦労ではなかったことが伺われる。宗派の異なる寺社を配置、表向きと異なる信仰などで介入策が取られたとみてよい。特に加賀藩に於いては伴天連の遺物が根強く残る事はいがめない事であった。寺社に残る前田家の奉納品等々にそれらが感じ取れた。織部灯籠の様に中央部に膨らみを持たせ“十字“に見立てたものが陶器の花生として鎮座されていた。
「さて、以前にお話し申しました吾等の縁の寺を訪ねましょうかな。」
「後藤銘の鐘楼ですか」
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# by hirai_tom | 2010-07-18 08:42

13-3   

2010年 07月 14日

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さて、大聖寺城下、全昌寺に宿した曽良は朝餉を済ますと、権十良の案内で藩主の菩提寺である実性院の歴代藩主の墓を訪れた。(此の一帯は現在、山ノ下寺院群と呼ばれ、熊坂川に沿うように実性院・蓮光寺・久法寺・全昌寺・正覚寺・宗寿寺・本光寺・加賀神明宮白山宮と並ぶように在る。)
実性院は全昌寺の目と鼻の先に在った。院の左方の藩士の墓に沿って坂道を登る。路の脇には家老神谷内膳寄進の灯籠が並んでいる。
「織部灯籠ですかな」
「其の様です。中程に膨らみが見えます。」
「マリア像は彫られては御座いません。」
 階段を登りきると、頂が広場と成り、見事な墓が並んでいる。
「此れは参り申した。まるで、天主が並んで居る様で流石、前田家で御座いますな。」
「高岡の二代利長公廟所・金沢 野田山の本藩の歴代墳墓と云い、加賀藩主の祖先への気持ちは並みでは御座いません。」
「左様ですな。道すがら何れの廟所も拝見致しましたが、其々に想いが感ぜられます。」
「殉死した家臣達の墓も添うように、中沢・小沢・小栗何某と在る。」
「利治公の亡くなられた時の例の一件か」
「公の死にも謎が多く、吾が才次郎も駆け付けたが、面会は叶わなかった。」
「さて、又降って参りましたな。」
「神社の方も幾つか拝したいのだが」
「最もで御座いますな。左様に致しますか。」



 
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# by hirai_tom | 2010-07-14 11:51

13-2   

2010年 07月 09日

 八月 六日(陽暦 九月十九日)
              雨降。滞留。未ノ刻、止。菅生石天神拝。将監湛照了山。

 此の日、小松では芭蕉翁は万子と小松天満宮に趣き、能順を梅林院に訪ねた。
 能順は明暦二年(1656)には既に、利常公・綱利・利次・利治等と連歌を賦し、その後、利常公に請われて、明暦三年より小松天満宮の別当として梅林院に在った。
 さて、明和七年(1707)刊行、建部涼袋の俳諧論『とはじぐさ』は、芭蕉と能順の出会いを、下記の様に伝える。
“能順出おはして、何くれとなく謂ひ語らひ給ふ中に、ばせをの曰ク、「かねてうし(大人・先生)のあそばしたる連歌の事どもを、をちこし承はるに、涙落して愛(めで)奉りき」といふに、あるじ聞給ひて、「そはいかなる歌をか聞て、しかのたまふ」とあれば、「
     秋風にすすきうち散るゆふべかな
とある御歌ぞ、たぐひあらじと、愛デ奉りき」と聞ゆ。さてあるじの曰ク。「さおぼえ給へるか、今一わたりとなへて、聞えたまへ」とあるに、ばせを又しかく唱えへけるを聞て、あるじのいわく「そこは聞しにも似ず、言葉にくらき人にておはせり。こはよしもなき事にいとまを費しぬる事よ。今宵はことに暇なかりしかど、万子の物し給うふによりてまみえき。さるくらき人と物かたらひて何かせむ。夫におはせよ」といひて、いや(礼)もなく入り給ひつ。こは何事に腹あしくし給ふやと、万子もばせをも、たつもはした(半)、居るもはしたにて、おもひわづらひける。
 そこへ若い法師が出て来たので、何故に能順が怒ったのかを聞いてみたところ、奥へ入った能順は、こう呟いていたというのである。
「かの句は『秋風はすすきうち散るゆふべかな』でなければ、言葉の続きも其のとまりもよくない。それを『秋風に』と覚えていて、人にもそのように語ってきたとは、なんとも浅間しい」
 そこで二人は、その日は何とかいい繕って退出してきた。”と,この様な具合である。
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# by hirai_tom | 2010-07-09 21:02