古九谷余滴  ⑥―⑥  「古九谷」は誰がつくったか?   

2012年 03月 05日

 ちなみに、後藤宗家では、七代顕乗は (1586~1663)
       大聖寺藩の弥三右衛門は  (1584~1665)
       酒井田柿右衛門・喜三右衛門(1596~1666) とされています。
 九谷社に奉納されていた田村権左右衛門銘の花瓶は、明暦元年六月二十六日と記れてあり、これまでは、初窯を祈念した日付とされてきましたが、これは、寧ろ権左右衛門が柿右衛門であった証として還暦記念日としたと考えられます。
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# by hirai_tom | 2012-03-05 20:46

「古九谷」余滴  ⑥―⑤  「古九谷」は誰が造ったか?   

2012年 03月 02日

 ― 立乗・七郎兵衛 (1630年没)      ― 益乗・七郎兵衛 (1662年没)
    (*)右兵衛・兵庫頭・清永・清重       (*)市右衛門清重
        越後で三百石 (1628年没)               (1664年没)

    覚乗・勘兵衛 (1656年没)          清 乗 (1688年12月29日没)
       加賀後藤・三十人扶持           (*)七兵衛清寅
    (*)初代後藤才次郎「吉定」               (1688年11月27日没)
       越後から加賀へ (1652年没)         二代後藤才次郎「定次」
                                     実性院の位牌に
                                     ”泰岳院安翁淳清居士”


 長乗が脇後藤・勘兵衛家の祖とすれば、越後から来たと云う後藤才次郎の祖(市右衛門)とは、徳乗の弟の長乗という事になります。
 この事から、初代才次郎と顕乗・琢乗は従兄弟関係と云う事が解ります。又、二代才次郎は、初代才次郎の甥となります。
 この後藤宗家七代顕乗が、加賀での記録が消えた後藤「吉次」であり、この弥三右衛門(大聖寺藩士)が十年の歳を偽り、喜三右衛門(喜の字の中に「吉次」)として酒井田円西の娘婿となり、加賀の一字を加え加喜右衛門とし、初代酒井田柿右衛門が誕生します。前田利常の支援で色絵磁器を完成した顕乗は、妻子を残し帰藩し、(酒井田村)の権左右衛門として九谷村で築窯します。
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# by hirai_tom | 2012-03-02 17:52

古九谷余滴  ⑥-④  「古九谷」は誰が造ったか?   

2012年 03月 01日

 ― 六代栄乗・四郎兵衛(1577~1617)            ― 八代即乗                                秀吉・秀頼に仕え、後一時浪人、長乗の取り成しで
         秀忠から山城の知行地を安堵される。
     (*)金屋彦四郎 四世「吉恵」
        後藤彦右衛門 (1615年没)
          ”秀吉公ヨリ知行三百石・京都デ病死”
                『大聖寺藩士由緒帳・後藤松吉郎』
    乗春 (夭折)
     (*)後藤次郎兵衛二男
        権之佐 (三代脇田帯刀)・京で「宗甫」
    七代顕乗・理兵衛家祖(1586~1663)            ― 九代程乗                                     前田家より禄百五十石
      (*)金屋彦四郎 五世「吉次」
         後藤弥三右衛門(1584~1665)
         田村権左右衛門(大聖寺・実性院に義山院忍翁宗利居士の位牌あり)
    琢乗・次右衛門 (1637年没)
           『石川県史』に”初代後藤才次郎「吉定」と共に加賀に来た”とある。
    女・本阿弥光室
    女・狩野氏信室
    女・本阿弥光刹室
    
  さて、後藤本家の系図と(*)加賀での名前及び、生年・没年が若干、異なっています。如何してかと言いますと、隔年ごとに移動していた後藤技術集団が、それぞれ当地に落ち着くという事は、此方にも家族が出来るという事です。加賀での藩士帳等では、晩年は京で浪人等と書かれています。つまり、当地を離れた年と京や他の地での没年の差があるわけです。 次に、徳乗の弟の長乗の流れを見ます。  
           
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# by hirai_tom | 2012-03-01 22:03

 古九谷余滴  ⑥ー③   「古九谷」は誰が造ったか   

2012年 03月 01日

 『後藤家十七代の刀装具』に記載の本家系図に符合する、加賀で名を残す関係者(*)です。
 後藤家は、初代祐乗・二代宗乗・三代乗真と続き、四代光乗の時代に入ります。
 四代光乗・四郎兵衛(1529~1620)―五代徳乗・四郎兵衛(1550~1631)―
     足利・織田・豊臣と使える。        1581年信長の命で大判役・
     1581年信長の命で大判・        分銅役
    分銅を製作。                  1588年秀吉の命で祐徳と
 元乗光嗣(三代乗真の二男)           天正菱大判製作。
     妻・信長の娘                (*)金屋彦四郎・三世「宗古」       
 祐徳(菱後藤祖・五代徳乗の岳父)         浅野屋次郎兵衛(1638年没)    
     大阪にて、天正菱大判製作。          1615年銀座役
   (*)金屋彦四郎・二世「吉高」          後藤次郎兵衛 
 妙清(狩野元信室)                     人持組 千二百石
                           長乗・七兵衛(1561~1616)―
                              上後藤祖・七郎兵衛
                              脇後藤・勘兵衛家祖
                              1603年家康に一時仕える。
                              (*)市右衛門(後藤才次郎の祖は
                               越後の市右衛門と伝える。)                      『石川県史』に”浅野屋次郎兵衛は同家三世にして、法号を宗古といひしものとし、金屋彦四郎は第四世 吉恵にして、後藤才次郎は初代吉定なり。”とあります。次に、徳乗の流れを見てみます。
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# by hirai_tom | 2012-03-01 02:54

 古九谷余滴  ⑥ー②    「古九谷」は誰が造ったか   

2012年 02月 28日

 ”伊万里論者”の中にも、加賀藩なくしては「古九谷」はできなかったのでは?と思われる人は沢山おられると思います。それでは、誰が「古九谷」を造ったかであります。
 当時、加賀藩は京後藤宗家と深い関係がありました。最初は、初代前田利家が豊臣秀吉に頼み、貨幣鋳造の為に技術者を京から迎え入れたことに始まりますが、徳川期に入ると、京宗家から加賀・江戸へと隔年ごとに頻繁に技術者が送られ、当初、移動していたものが徐々に定着し、京の上後藤・江戸の下後藤・金沢の加賀後藤という大きな流れとなります。
 美濃に源を発する後藤家は、初代祐乗が彫金師として足利義政に認められ後、織田・豊臣期には大判鋳造等で力を発揮します。江戸期には金座のため番頭格を送り、後藤の花押や刻印が不動のものとなります。幕府でさえ、五・三の桐紋を変えることが出来ませんでした。今日の貨幣にまで後藤の紋が残されています。又、彫金では刀装具の三所物を得意とし、本阿弥家の折紙同様に認められていました。
 後藤家が洗練された技術をより高めた背景にはこうした本阿弥家や狩野派との姻戚関係があります。ちなみに、四代光乗の妹妙清は狩野元信、六代栄乗の三人の妹は本阿弥光室・狩野氏信・本阿弥光刹にそれぞれ嫁いでいますし、光刹の娘妙程は九代程乗の嫁となります。                             さて、加賀藩は特に後藤家の導入に力を入れています。今日、名品の多くが前田家で所持されている事でもそれがわかります。そこで、加賀藩に名を残す後藤家関係の人達、又「古九谷」に関わったとされる人達(たとえば、後藤才次郎・田村権左右衛門等)は、後藤本家の系図の中で糸口を見つけ出せるはずです。
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# by hirai_tom | 2012-02-28 20:21