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「古九谷余滴」 ⑧ 岡本太郎のいうアート   

2012年 03月 13日

 かって、山中温泉で毎年行われている”古九谷修古祭”でも公演されておられる岡本太郎氏は、著書の『今日の芸術』で、芸術は創造です。だから新しいということは、芸術における至上命令であり、絶対条件です。と述べられています。
 そして、同著で”モダンアート”を二つの系列で説明しています。「古九谷」とは何か!が解るのではと思います。
 
 モダンアート
     抽象芸術(アプストラクト)  一  幾何学的な丸・三角・四角、あるいは、何々だ、ということのできな                          いようなあらゆる形態、それに入り混じる線などが画面を占めてい                           ます。色彩もそれに応じて、リンゴの赤とか樹木の緑というような説                          明的意味を離れた、自由さを持っています。

     超現実派(スュールレアリスム)
                       一  理性、道徳、美などという人間生活の上っかわにあって、時代と場                          所によって常に移り変わったり、基準を失うようなものを徹底的に疑                          い、人間性の奥底に潜んでいる本質をえぐり出し、人間本能の非合                          理性を追求。
                           神話・伝説に登場する化け物、夢物語は非現実的であり、仏像の
                          十一面の顔・千本の手等も、ただの写実よりもはるかに強く私達に                          迫ってきます。
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by hirai_tom | 2012-03-13 21:37

「古九谷」余滴 ⑦   「古九谷」と初代柿右衛門   

2012年 03月 10日

 中国には完璧な陶磁器の歴史があり、日本には「古伊万里」という優れた磁器があるにもかかわらず、何故に「古九谷」は評価されてきたのか、何処が評価に値されたのか、今、改めて考えなくてはならない。
 恥ずかし事ではあるが、我が国の多くの美術館では今日「古伊万里」の中に「古九谷」は分類され、活字化されている。出版物はさることながら、其れが辞書類にまで及んでしまった。
 魯山人・加藤陶九郎・岡本太郎、哲学者の谷川徹三氏等、一見識を持たれた方達は次々と亡くなり、台頭するかのように、立場の上に立とうとする人達が出現している。後の世の人達は、今の時代をどの様に捉えるのだろうか興味が持たれるところです。
 さて、「古九谷」を”柿右衛門様式・古九谷様式”として「古伊万里」の範疇に分類した張本人、元東京国立博物館・陶磁室長の矢部良明氏の功罪は大きいものがあるが、一面、さすがと思われる興味ある指摘を、著書『世界をときめかせた伊万里焼』の中でされておられる。
 ”1640年代の中頃、初代柿右衛門はどの様な色絵を完成させたのであろうか、そう念願して20余年、得られた結論は、国定教科書のエピソードとは裏腹に、実は、赤絵具を極力控えめにして、濃厚な緑・黄・群青・紫などのガラス質の上絵具をたっぷりと使った、世に「古九谷」と呼ぶ色絵こそが、最盛期の伊万里の色絵であった。”とこの様に結論づけている。
 又、矢部氏は同著でこうも述べている。柿右衛門様式の「工芸美」にたいして古九谷様式は「芸術美」である。と 又、別の出版物では、同箇所に「古九谷様式」をうたいながら「古九谷」を表示し、ご自分なりの使い分けをされておられる。
 思うに、発掘物からスタートした学説は中々変えられないが、本物の「古九谷」に多く接するごとに、アートを”様式化”する愚を感じられたのでは? 
 発掘品からスタートしている今日の多くの学者たちは発掘がすべてであり、それに裏付けされた学説がすべてであります。その結果、アートである「古九谷」をかれらは平気で”古九谷様式”として分類してしまう。
 自国の優れたアートを”様式”として組み込み、自説のためなら平気で自国の財産価値をすり減らす国家公務員。その上、東洋陶磁学会という考古学者の多い団体が出来が悪い、彼らにとっては発掘品がすべてであり、人文科学は二の次である。彼らの結論は一見解として参考意見に留めるべきはずの文化庁も右に倣えが今日の状況である。
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by hirai_tom | 2012-03-10 21:08

古九谷余滴  ⑥―⑥  「古九谷」は誰がつくったか?   

2012年 03月 05日

 ちなみに、後藤宗家では、七代顕乗は (1586~1663)
       大聖寺藩の弥三右衛門は  (1584~1665)
       酒井田柿右衛門・喜三右衛門(1596~1666) とされています。
 九谷社に奉納されていた田村権左右衛門銘の花瓶は、明暦元年六月二十六日と記れてあり、これまでは、初窯を祈念した日付とされてきましたが、これは、寧ろ権左右衛門が柿右衛門であった証として還暦記念日としたと考えられます。
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by hirai_tom | 2012-03-05 20:46

「古九谷」余滴  ⑥―⑤  「古九谷」は誰が造ったか?   

2012年 03月 02日

 ― 立乗・七郎兵衛 (1630年没)      ― 益乗・七郎兵衛 (1662年没)
    (*)右兵衛・兵庫頭・清永・清重       (*)市右衛門清重
        越後で三百石 (1628年没)               (1664年没)

    覚乗・勘兵衛 (1656年没)          清 乗 (1688年12月29日没)
       加賀後藤・三十人扶持           (*)七兵衛清寅
    (*)初代後藤才次郎「吉定」               (1688年11月27日没)
       越後から加賀へ (1652年没)         二代後藤才次郎「定次」
                                     実性院の位牌に
                                     ”泰岳院安翁淳清居士”


 長乗が脇後藤・勘兵衛家の祖とすれば、越後から来たと云う後藤才次郎の祖(市右衛門)とは、徳乗の弟の長乗という事になります。
 この事から、初代才次郎と顕乗・琢乗は従兄弟関係と云う事が解ります。又、二代才次郎は、初代才次郎の甥となります。
 この後藤宗家七代顕乗が、加賀での記録が消えた後藤「吉次」であり、この弥三右衛門(大聖寺藩士)が十年の歳を偽り、喜三右衛門(喜の字の中に「吉次」)として酒井田円西の娘婿となり、加賀の一字を加え加喜右衛門とし、初代酒井田柿右衛門が誕生します。前田利常の支援で色絵磁器を完成した顕乗は、妻子を残し帰藩し、(酒井田村)の権左右衛門として九谷村で築窯します。
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by hirai_tom | 2012-03-02 17:52

古九谷余滴  ⑥-④  「古九谷」は誰が造ったか?   

2012年 03月 01日

 ― 六代栄乗・四郎兵衛(1577~1617)            ― 八代即乗                                秀吉・秀頼に仕え、後一時浪人、長乗の取り成しで
         秀忠から山城の知行地を安堵される。
     (*)金屋彦四郎 四世「吉恵」
        後藤彦右衛門 (1615年没)
          ”秀吉公ヨリ知行三百石・京都デ病死”
                『大聖寺藩士由緒帳・後藤松吉郎』
    乗春 (夭折)
     (*)後藤次郎兵衛二男
        権之佐 (三代脇田帯刀)・京で「宗甫」
    七代顕乗・理兵衛家祖(1586~1663)            ― 九代程乗                                     前田家より禄百五十石
      (*)金屋彦四郎 五世「吉次」
         後藤弥三右衛門(1584~1665)
         田村権左右衛門(大聖寺・実性院に義山院忍翁宗利居士の位牌あり)
    琢乗・次右衛門 (1637年没)
           『石川県史』に”初代後藤才次郎「吉定」と共に加賀に来た”とある。
    女・本阿弥光室
    女・狩野氏信室
    女・本阿弥光刹室
    
  さて、後藤本家の系図と(*)加賀での名前及び、生年・没年が若干、異なっています。如何してかと言いますと、隔年ごとに移動していた後藤技術集団が、それぞれ当地に落ち着くという事は、此方にも家族が出来るという事です。加賀での藩士帳等では、晩年は京で浪人等と書かれています。つまり、当地を離れた年と京や他の地での没年の差があるわけです。 次に、徳乗の弟の長乗の流れを見ます。  
           
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by hirai_tom | 2012-03-01 22:03

 古九谷余滴  ⑥ー③   「古九谷」は誰が造ったか   

2012年 03月 01日

 『後藤家十七代の刀装具』に記載の本家系図に符合する、加賀で名を残す関係者(*)です。
 後藤家は、初代祐乗・二代宗乗・三代乗真と続き、四代光乗の時代に入ります。
 四代光乗・四郎兵衛(1529~1620)―五代徳乗・四郎兵衛(1550~1631)―
     足利・織田・豊臣と使える。        1581年信長の命で大判役・
     1581年信長の命で大判・        分銅役
    分銅を製作。                  1588年秀吉の命で祐徳と
 元乗光嗣(三代乗真の二男)           天正菱大判製作。
     妻・信長の娘                (*)金屋彦四郎・三世「宗古」       
 祐徳(菱後藤祖・五代徳乗の岳父)         浅野屋次郎兵衛(1638年没)    
     大阪にて、天正菱大判製作。          1615年銀座役
   (*)金屋彦四郎・二世「吉高」          後藤次郎兵衛 
 妙清(狩野元信室)                     人持組 千二百石
                           長乗・七兵衛(1561~1616)―
                              上後藤祖・七郎兵衛
                              脇後藤・勘兵衛家祖
                              1603年家康に一時仕える。
                              (*)市右衛門(後藤才次郎の祖は
                               越後の市右衛門と伝える。)                      『石川県史』に”浅野屋次郎兵衛は同家三世にして、法号を宗古といひしものとし、金屋彦四郎は第四世 吉恵にして、後藤才次郎は初代吉定なり。”とあります。次に、徳乗の流れを見てみます。
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by hirai_tom | 2012-03-01 02:54