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 古九谷余滴  ⑥ー②    「古九谷」は誰が造ったか   

2012年 02月 28日

 ”伊万里論者”の中にも、加賀藩なくしては「古九谷」はできなかったのでは?と思われる人は沢山おられると思います。それでは、誰が「古九谷」を造ったかであります。
 当時、加賀藩は京後藤宗家と深い関係がありました。最初は、初代前田利家が豊臣秀吉に頼み、貨幣鋳造の為に技術者を京から迎え入れたことに始まりますが、徳川期に入ると、京宗家から加賀・江戸へと隔年ごとに頻繁に技術者が送られ、当初、移動していたものが徐々に定着し、京の上後藤・江戸の下後藤・金沢の加賀後藤という大きな流れとなります。
 美濃に源を発する後藤家は、初代祐乗が彫金師として足利義政に認められ後、織田・豊臣期には大判鋳造等で力を発揮します。江戸期には金座のため番頭格を送り、後藤の花押や刻印が不動のものとなります。幕府でさえ、五・三の桐紋を変えることが出来ませんでした。今日の貨幣にまで後藤の紋が残されています。又、彫金では刀装具の三所物を得意とし、本阿弥家の折紙同様に認められていました。
 後藤家が洗練された技術をより高めた背景にはこうした本阿弥家や狩野派との姻戚関係があります。ちなみに、四代光乗の妹妙清は狩野元信、六代栄乗の三人の妹は本阿弥光室・狩野氏信・本阿弥光刹にそれぞれ嫁いでいますし、光刹の娘妙程は九代程乗の嫁となります。                             さて、加賀藩は特に後藤家の導入に力を入れています。今日、名品の多くが前田家で所持されている事でもそれがわかります。そこで、加賀藩に名を残す後藤家関係の人達、又「古九谷」に関わったとされる人達(たとえば、後藤才次郎・田村権左右衛門等)は、後藤本家の系図の中で糸口を見つけ出せるはずです。
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by hirai_tom | 2012-02-28 20:21

古九谷余滴  ⑥ー①  「古九谷」は誰が造ったか?   

2012年 02月 27日

      古九谷余滴               ⑥ ー ①                                                        
  先日、山中ロータリクラブで講話を頼まれ、昼食時に「古九谷」は誰が造ったか?で話しました。           
 今日、日本各地の美術館を訪れ「古九谷」は何処で造られたのですか?問いますと、大多数の館長なり学芸員の人達は、肥前(佐賀県)で造られたのではないですかと答えるでしょう。これが現実であります。     肥前には九谷という地名も窯もないのですが、何故、こうゆうことになってしまったのでしょうか、私は学者と言われている人たちの責任は大きいと思っています。
 邪馬台国論争がそのよい例です。彼らは自説に有利な発掘を繰り返し、九州説と畿内説で言い争っています。この論争は、東大と京大がなくならない限り、永遠に続くと思われます。本来なら、今日まで決定打がないのだとしたら、どちらでもないところに真実があるのでしょう。
 土台、謎となるには、それだけの理由がある筈です。秘密にしなければならない訳があったのです。つまり、出土物だけでは肝心の謎は解けないということです。しかし、御身を大切にする彼らの世界では、物証のない伝説や神話は通用しません。
 「古九谷=古伊万里説」に関して言えば、彼らのスタートは発掘からであり、「古九谷」の芸術性から入ったものではない訳です。「古九谷」はアートですから、一枚の絵皿で評価しなければ意味がありません。出土品の破片の一部で「古九谷」か”古九谷風”のものかは区別ができません。
 「古九谷」は肥前の何らかの技術を得て作り上げたものですから似たようなものは出土します。そこで彼らは”古九谷風”のものを「古九谷様式」として「古伊万里」の範疇に組み入れてしまったという訳です。しかし、考えて下さい!「古九谷」は現代で言うピカソ級の人が造った焼物です。ピカソの作品に「ピカソ様式」と名付ける
馬鹿はいません。「古九谷様式」も「ピカソ様式」もどちらも「古九谷」でも「ピカソ」でもない訳です。つまり、美術館に「古九谷様式」と明記されていたら、それは”古九谷風”のものであり、「古九谷」の偽物ということになります。 
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by hirai_tom | 2012-02-27 22:14