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1o-13   

2010年 05月 30日

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「加賀の南京焼には、肥前の赤絵に見られる様な明るさ、華やかさは感じられないのだが、何か深く訴えるものが・・・。さあ~て、其処の所は何か解らぬが、お主等の家系によるものなのか、信仰に通ずるものなのか、ま、吾等が詮索の及ぶところでは無いが。」
「吾等を深く捉えるモノの正体は一体何なのか興味のある処ですな。あの色絵と余白の醸し出す美しさは、吾等を“摩訶不思議な処へと導く様じゃ、あのような重苦しい色絵顔料を使いながら、不思議な明るさがある。」
「左様で御座いますな。其処が、後藤の技術かと。」
「はい、吾等は先ず、素地の底部に呉須で線書きを致します。其の上に顔料の釉薬を掛け覆うのですが、下に描かれた黒い呉須の線を浮き揚がらせる為には、釉薬に透明度を持たさねばなりません。」
「成程。深みのある美しさの秘密はその辺に有ったのか。」
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by hirai_tom | 2010-05-30 21:09

10-12   

2010年 05月 28日

「左様か。女子の手に成る物か。さる方の御屋敷にて拝見の機会を得る事が出来たが、赤が基調の頗る美しきものであった。」
「加賀からの援助も当然致しておりましたが、独自の物を生み出す必要がありましてな。」
「お主等には謎が必要と云う事か。柿右衛門家の秘文書で、“初代と加賀藩には何らかの関係が在った事”又、“先代等に対して親柿右衛門の儀と記して有る事から、残された母親による系譜”が想像されるが、記憶は何時の間にか闇の中にと云う事か。お主等、後藤家の御役目には頭が下がりますな。」
「はい、是も全て、加賀様が有っての事。京の文化を北陸の地に開花させられました。中でも“九谷やき”は、未だかって否、此れからも比類の無きものと云えるでしょう。」
「あの独自の色使いは、正に、此の地の生活から生まれ得たものと言えよう。」
「はい、その深くて暗い山里の森・川、どんよりと曇った空・海、これら北陸独特の重苦しさを表現する為の顔料(緑・黄・青・紫・赤)は全て、奥山方で得る事が出来ます。父は、その暗く観える生活の中にこそ美が潜んでいると。一瞬差し込む陽光・しんしんと積る雪の白さ・その雪溶水の流を、より美しく感じ捉えていました。」
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by hirai_tom | 2010-05-28 03:24

10-11   

2010年 05月 25日

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「左様なお気持ちは充分に、ボラ待ち櫓から遥か佐渡の地に想いを募らせて居られたやも知れませぬ。」
「さては、お主達の第三期の九谷窯は肥前から白磁を取り寄せての物であったか。」
「はい、前回は二代藩主利明公の許、才次郎忠清と二代柿右衛門が肥前の職人を連れ帰藩し、新たに築窯をいたしました。」
「左様に、其れが永くは続かなかったとの事であったが。」
「はい、何せ九谷は奥山、冬ともなれば雪の量も半端では御座いませぬ。是は、肥前では思いもよらぬ事。その上、燃料となる木を切り過ぎ申した。下流の城下が度々、水攻めに遭う始末でな。」
「奥山故、藩では何かと秘密は保てたが、時には勝てぬか。」
「はい、城下では絵師は事足りますし、絵付けの“錦窯”も可能で御座います。」
「肥前にて渡りを付けたとは、左様な含みもあっての事か。」
「絵付けに於いては、権左右衛門と才次郎定次が加賀の色絵付けを完成し、二代柿右衛門と才次郎忠清は新規の錦窯技術を持ち帰りました。」
「其の上に、肥前の“素地”さえ手に入れば、鬼に金棒と云う事か。」
「去れど、初代・二代と去った後、三代以後の柿右衛門家は新しい肥前の南京焼を生み出さねば為らなかった。残された妻子と十人の女工達は、苦労をかさね、後世に残る柿右衛門の赤絵を生み出した様だ。」
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by hirai_tom | 2010-05-25 22:06

10-10   

2010年 05月 23日

「左様か。お主が以前見せてくれた久隅守景の絵皿は確か、能登の漁法“ボラ待ち櫓”と云ったか、何故、九谷の絵皿にと思わぬ事も無かったが、左様であったか。」
「はい、肥前からの白磁には定次が絵付けを致しました。守景の下絵は皆其の頃の物で」
「守景は金沢に居たと聞き及んでいたが、能登の方にも出向いて居たか。」
「はい、能登は佐渡に近こう御座いまして。佐渡には御子息が」
「何、久隅の息子が流されて居たのか。」
「はい、狩野探幽の弟子で、久隅彦十郎(後、狩野守則)と云ったが、この御子息“悪所通い“と云う事で探幽様が勘当して居る。何故か、久隅一家は皆、狩野派から破門と云う事に。彦十郎の姉、雪も清原雪信と云うて名うての才女で有ったが是も、同塾生との駆け落ちでな。」
「久隅守景と云えば、探幽が最も頼りとしていた人物で在ったが。」
「はい、探幽門下の“四天王の一人”と言われ、妻の母親は探幽の妹故、師の姪に当たります。」
「守景が狩野派を出るには余程の事情が有ったとせねばなるまい。」
「擦れば、例の絵皿。放蕩息子をじっと我慢して待っている親の姿やも」
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by hirai_tom | 2010-05-23 22:30

10-9   

2010年 05月 21日

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「さて、第二期の九谷窯は如何も思う様な成果が望めなく、短期間で閉じる事になった。」
「お主の父君、権左右衛門は、如何成された。九谷には御戻り為されなかったのか」
「田村権左右衛門は飽くまでも九谷での仮の名、京・江戸では後藤宗家七代顕乗としての立場が御座いました。」
「左様ですな。京の宗家が、江戸に移られたのも確か、その頃だったかと。」
「はい、その上、宗家を継ぐべき本家筋が皆、病弱で早世故に、其の後見役も」
「左様なれば、九谷窯までは無理と云うものでしょうなあ」
「はい、結局は、能登(天領地内)に居を構える才次郎定次と才次郎忠清親子による第三期の九谷窯と云う事に」
「親子とは云え離れて居てはちと」
「はい、其処は此の権十良が補佐すると云う形を執る事に」
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by hirai_tom | 2010-05-21 20:32

10-8   

2010年 05月 19日

「我等後藤一族には徳川家・前田家、両家が必要で御座いましてな。利常公は我等の事は承知で泳がして下さった。」
「犠牲者は無かったと。」
「否、何事にも犠牲は付き物で御座います。能州では、田川も下村も御算用場奉行の稲葉左近様の許で手足と為って動いており申した。そうした事が認められての、辰巳用水工事で御座いました。左近様は、能州での事業からの捻出で資金繰りを成されておられました。」
「難儀の工事故、資金の調達には苦労なされた事で御座ろう。」
「左様です。去れど、切れ者故、吾等の“秘“の部分まで知られまして。」
「吾等が一番恐れる処じゃな。」
「工事も終わり、一段落過ぎた処で“公金流用”の資料を整え、両名で訴え出ました。」
「稲葉左近様と云えば中々の御人であり、利常公の信任も厚かったと」
「左様。之には、利常公も弱り果てられ、暫くは蟄居を命じて居られましたが、已む無く切腹の仕儀と。」
「詮無き事であったな。」
「我等にも使命が御座います。」
「後藤の役目とは、加賀藩の埋蔵金かな」
「左様ですなあ、其の後は徐々に南下し、大聖寺藩へと。」
「九谷は一山越えれば越前と云う事か。」

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by hirai_tom | 2010-05-19 10:04

10-7   

2010年 05月 17日

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「左様、能登には宝立山と云う金山が御座います。吾等後藤は山師“才次”として携わっており申した。」
「能登にも拠点が」
「能登の首根っ子を押さえて置かなくては、幕府も安心できませんからな」
「押さえには天領をな。」
「その上に、高山右近様が居られた頃には伴天連のセミナリヨも御座いました。能登・七尾の前田家縁の本行寺には“ゼウスの塔”なる得体の知れぬモノも御座る。」
「吾等には皆目、判らぬモノばかりじゃが、矢張り主等は“隠れ”の様じゃな。」
「其処が、吾等の御先祖様達の凄さでな。“隠れ”として本行寺にて伴天連の技術を掴み申した。“辰巳用水”には其の技術も活かされて居ります。」
「何々、さては、一年足らずで金沢城内にまで引き入れたと云う用水造りの技術は、矢張りお主等の成せる技であったか。」
「辰巳用水以前に能登では小代官を務めており申してな。田川次郎衛門・下村兵四郎の名でな。」
「辰巳用水は板屋兵四郎と聞き及んで居るが」
「七尾の下村にも吾等の拠点が」
「左様であったか、去れど、用水完成後は其々口封じに」
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by hirai_tom | 2010-05-17 14:12

10-6   

2010年 05月 15日

「お主達の南京焼は、柿右衛門・九谷やき・姫谷焼と、其々が連動しながら其々の特徴を出している。中でも“九谷やき”は流石、加賀百万石の事はある。後藤家を取り組み、南京焼では比類のないものを造り上げた。後世、是を上回るものは先ず出るまい。」
「藩の事情も御座ろうが、造り手もいないと云う事か」
「利常・利治公の許、権左右衛門・才次郎定次が完成させた南京焼は余人の許さぬモノであった。両公の亡き後、先ず才次郎が姫谷へ消えます(市右衛門窯)。父権左右衛門は才次郎忠清と共に肥前に出向き、加賀と肥前の渡りを付けます。後、忠清は二代柿右衛門と共に加賀へ帰り第二期九谷窯が始まります。二代大聖寺藩主利明公の許、新たに第二期がはじまりますが先代の様な訳には参りません。そこで、二代柿右衛門は才次郎定次と変わり姫谷に入り、定次は再び加賀の地へ戻ります。定次は加賀の地では死んでいますから(籐丸籠送り)、能登の天領に入る事と成りました。
「左様か。さて、能登には何か縁でも御座るのかな。」


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by hirai_tom | 2010-05-15 20:16

10-5   

2010年 05月 13日

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「左様か。その設えはどの様であった。」
「先ず、床には初代藩主利治(実性院)様御作の竹花入一重、釜は阿弥陀堂、信長公時代の蒔絵の香合、利休より織田三七殿への文(歌・世をうらミ人をつらしと思ふなようきを我身の上としらねば)、“九谷やき“水指、藤四郎銘の茶入、黄瀬戸茶碗、甫竹作茶杓等流石、内膳様の茶会で御座いました。」
「神谷内膳殿は後藤の南京焼の良き理解者であった故、九谷窯を閉じるには偲び難いものがあった事だろう。」
三代加賀藩主利常・初代大聖寺藩主利治様両公が、後藤一族に白羽の矢を立て完成に漕ぎ着けた南京焼。それを支えてきたのは、利治大聖寺分封と共に附家老(3000石)を務めた神谷元易、その後を継ぎ、筆頭家老として長きに亘り藩政を補佐した神谷守政(母・宇喜多秀家の娘、加那)であった。
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by hirai_tom | 2010-05-13 23:28

10-4   

2010年 05月 11日

 田村権十良(後藤彦右衛門)は芭蕉と曽良に向かい深々と頭を下げた。九谷の窮状を翁に報告し、下知を仰ぐべく藍九谷の中皿を送り、待ちわびたこの二年の年月を想う。
「お主からの便りで驚いたが、並みの事態ではないこと故、今日に至ってしまった。」
 翁も同様に頭を下げる。
「何を云われますか。昔の馴染みで、私の方こそ御無理を申しあげました。」
「お主達の立場も、幕府と加賀藩の緊張関係が在ってのもの。親藩以上に徳川家との結びつきが出来ましてはな。」
「左様で、先代の頃とは事情も違っております。吾等の未熟さも御座るが、何せ、大聖寺藩の財政も逼迫を増して御座います。その上に、本藩との関係も捗々しくは御座いません。」
「残念なことですな、加賀後藤の南京焼否、“九谷やき”も途絶えますか。処で、神谷様は。」
「はい、一昨年、神谷様御屋敷の三畳半の茶室で浅野屋次郎兵衛浄全(号・臘月庵)等関係者の集りが御座いました。」
「伴天連の云う“最後の晩餐”とやらかな」
「否、左様なものとは違いましょう。茶室は、伴天連ではバードレに懺悔と云うものを致す個室に相当致します。それ故、利休様は茶室をより小さく成されました。ま、其れはさて置き、確かに“最後の晩餐”であったやも知れませぬ。」
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by hirai_tom | 2010-05-11 22:45