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7-8   

2010年 03月 31日

「左様であったのか、如何にも“小柄”の様な小ぶりな細工物では物足りぬ、父君なれば奇才ぶりを発揮したいところじゃろう。成程、あの山楽を越えるには南京焼は打ってつけと言えるか」
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狩野山楽≪鷲鳥図屏風≫重文
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狩野山楽≪松鷹図襖≫重文 大覚寺

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by hirai_tom | 2010-03-31 01:53

7-7   

2010年 03月 29日

「父は随分と此の地が好きだったようで、猿や兎、それらを捕らえる鷲や鷹、奴等の目線で造化を捉えるのだと、何時もの口癖でのう。」
「成程、此の地ならば、猛禽類を描くに事絶たぬな」
「クマタカやイヌワシは森の奥の赤松を特に好んで巣を造る。」
「後藤の本領発揮と云う処かな。三所物の彫金ではそなた達の右に出る物はおらぬからなあ」
「三所物と云えば、顕乗作の小柄の中に“鵺退治図”の傑作がある。鵺を押さえこむ武士が彫られておるのじゃが、この武士の図が擬人化された鷲でな、父の奇才ぶりが窺われる傑作だが、本人は如何にも気に入らなかったらしい。猛禽図と云えば、京狩野派の山楽が描いた“鷲鳥図屏風”(西本願寺)と“松鷹図襖”(大覚寺)が如何しても頭から離れない。」
豊臣家・本願寺に近い関係であった山楽には、徳川家お抱えの狩野探幽等を見下す様が各所でみられた。狩野家と姻戚関係にあり、一向宗と対決の家歴のある顕乗にとっては、山楽を如何に越えるかが課題であった。南京焼の技法を得る事は、利常公にとっても後藤家にとっても必要な事であった。
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by hirai_tom | 2010-03-29 09:18

7-6   

2010年 03月 27日

「何が有ったとしても、今は全ては土の下で御座います。」
 「左様で御座るな。お師匠には左様にお伝え致すとして、目の前の白龍が陽の光で天にも昇るようだ。千束瀧とは豪勢な。」
 「瀧の上は“千石ヶ原”と言うてな、千束の薪を滝壷に落としたと伝わっておる。さあ~て、お主に見せたいものがある。」
「この瀧の上に、まだ何か残っておるのか。」
 千束瀧川の右岸を瀧上に向かって急坂が伸びている。四五町もあろうか、黄葉した山道を進むと赤づんだ段状の物が見えて来た。近づくと、陶土を焼き付けた階段であった。
 「如何ですか、立派な物でしょう。」
 「奥山には不似合いな物ですなあ、こうした物は“韓”“朝鮮”にしかないものと思っていたのだが、これは驚きましたな」
 「父権左右衛門が築きました。村人は“焼附坂”と呼んでおります。」
 「千石原には何か御座いますかな」
 「九谷周辺には特殊な鉱脈が御座いましてな。吾等には何とも魅力のある地でな、ほれ、瀧の中程、あの赤巌も役に立つ。背山には陶石、五色谷、呉須穴と南京焼の材料には事絶たん。燃料も豊富でな、かって、この千石原一帯は赤松の林であった。今でも、ほれ、其処彼処に見事な五葉松が見られるわ。此処で焼かれた物は“かきのうえもん”ではなく“瀧の上もん“と呼ばれておるわい。」
「これは面白い、“焼附坂”と共に御師匠への手土産と致しますかな、あ、はあ、はあ・・・。左様か、最初の秘密窯は瀧の上になあ・・・左様で御座ったか。」

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by hirai_tom | 2010-03-27 20:32

7-5   

2010年 03月 25日

「此方で、父権左右衛門が、再従弟の才次郎と共に初めて造り上げた色絵皿には、秘密が漏れぬように”大聖寺“の古称を忍ばせた。裏面の唐子の画を大の字に見立て、吾等にしか判らぬように“大勝持”とな。しかし、ここにも縁の寺に尻尾は残してある。城下にある本善寺の梵鐘にな。」
 「その南京皿が大聖寺藩で焼かれた、お主達の最初の“九谷やき”と云う事か。」
 「まあ、そうゆう事に成るが、父が向こうで試焼きして持ち帰った物もある。」
「初代柿右衛門が色絵の初物を、加賀様に売り始めたと云うのは斯様な事であったか。」
 「加賀様には“北前船”の航路が御座います。又、高山右近様の例も御座います様に、伴天連の技術を受け入れる土壌も御座います。“島原”での御騒動の折には、“隠れ”の方達が随分此方に移られたと聞いております。」
 「さては、柿右衛門に白磁染付の技術を伝えたと云う高原五郎七なる者も、隠れキリシタン容疑で肥前を出奔したと聞き及んではいるのだが、背後には、主等がいたか。」
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by hirai_tom | 2010-03-25 08:30

7-4   

2010年 03月 23日

「拙者はこう見ておる。寛永年間、備前牛窓の回船問屋の持ち船が江戸へ向かう途中、八丈に漂着している。備前は宇喜多様の元御領地、出来すぎた話とは思わぬか。船子等が上陸して、釣り糸を垂れている品のある翁と出逢ったという。古老は備前岡山の事を懐かしげに色々と聴いたそうな。」
 「鳥も通わぬと云う八丈島。さては、加賀様も絡んだ話かな。」
 「判らぬ。前田家はその気に成れば、食料と共に替え玉を向かわせば事足るとも思えるが」
 「大藩にはこうした事情は付き物じゃて。」
「さてさて、今は昔。何れも過ぎ去ったわ。」
「お主達の南京焼のようにな。此方では大正持焼とでも言うのか」
 「下々の間では左様に呼称はされてはいるが、関わりのある者は“九谷やき”とな。」
 「焼かれている場所は秘密と云う事か。」
 「父権左右衛門が肥前と加賀を行き来する中で、双方、それなりの赤絵物を生み出すには、並みの苦労ではなかったと聞いている。」
 「しかし、お主等後藤の技術を持ってすれば、怖いもの無しだろうて。」
 「左様、肥前には海を隔てた明朝、李朝の技術者達が内乱の度に流れて参る。又、加賀には、我等が技術に加えて京の技術があるからのう。それ、我等が炉では獣の骨が必要でな、部外者には想像もつかぬだろうが、これが皿造りに役立つ。又、“錦窯”では“楽”の窯が生きてくる。」
 「巷では、お主達が肥前の技術を盗んだように云うが、お主等京・加賀の影の力があればこそと云う事か。」
 
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by hirai_tom | 2010-03-23 00:23

7-3   

2010年 03月 21日

「隠れ十字も絡んでいるのか。」
 「奥山では確かに“島原・天草”の匂いはする。宇城・小西・使徒、又、田の字銘も多
い上に、中の十字が田字から抜かれていたりもする。」
 「かって、利常公が遥か天草から樫の種を取り寄せ、此の地に植えたとは妙な話と思わんか。」
「この千束瀧の上、十五町ばかりに今一つ瀧が有る。女郎ヶ瀧と云うて、まるで蜘蛛の糸が垂れている様でな。そこから一山越えると在所が在る。色々と不可思議な里でな。何かと加賀様が力を入れておられる。一の原・二の原・三の原と奥が深い。鉱山も有る。祭りには木偶まわしで賑わうほどでなあ。左様、“馬のまき”と云う淵の平らにその樫の林があるにはあるが、天草の種まきとは・・・あるいわ、人の事やもしれん。」
 「九谷の社では、宇城太郎、三太郎等と如何にも“宇喜多”“サンタ”を想わす銘を目にしたが」
 「水守の社にも同様のものが奉納され、“喜多”何某と在りましてな、二社を合わせば宇喜多と成ります。何せ御家老様は宇喜多秀家殿の御孫様ですから、何が在っても不思議は御座いませぬ。」
 「前田家は隔年毎、宇喜多様の流されました八丈島に食料を送られておられるとか。豪姫様を始め、宇喜多様のご家中には洗礼を受けた方々が多いですからな。此方にお連れせぬまでも御霊を移されたやもしれませぬな。」
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by hirai_tom | 2010-03-21 01:08

7-2   

2010年 03月 19日

「千束瀧ですよ、取りあえず瀧下まで行きましょう。」
権十良は声高に叫ぶと、響音に向かって波しぶきを上げた。水かさは心持減った様だ。曽良も負けじと後を追う。
十町ばかり遡ったろうか、緑樹と黄樹の間を割る様に滝壺に向かって白龍が轟音を立てている。百尺ばかりはあろうか。権十良の自慢の顔が目に浮かぶ。
「奴め、岩間に頭を突っ込んでおるわ、裏をかきよって」
その岩間には、水しぶきを浴びて白く光る大文字草の群。山男と不似合いな山草の美しさが曽良の疲れを癒していた。
「谷水に武者ぶるいがするわ、お主もどうじゃ。」
「充分浸かっておるわ、それより、九谷で幾つかの御社が見られたが、お主達の火入れの祈りは、加具土の神の祀られた秋葉の社。さて今一つ、宇賀御魂命を祀った社がちと気になってなあ。」と曽良は滝つぼに向かって声を張り上げた。
 「やはりお主気づいたか、かって俺も探りを入れた事がある。」
 「証拠は掴めたのか、何か、宇喜多殿との係わりはあったのか。」
 「何とも言えぬわ。大聖寺城下には“水守の社”がある。御家老神谷殿の肝煎りの社でな、此方の社と如何も通じている様に思われてな。大日山の礼拝所やも知れぬ。」
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by hirai_tom | 2010-03-19 00:10

7-1   

2010年 03月 17日

七月二十九日(陽暦九月十二日)
           快晴。道明ヶ淵予不在

                  一
        曽良、権十良と再び奥山へ
昨夜からの雨で大日川は水かさを増し、靄が川面をすっぽりと覆い隠している。
「さあ、次は此方の岩ですよ」
 権十良の声と姿が同時に目の前から消えてゆく。谷間を覆う朝霧が一瞬、瀬音を吸い込むように断ち切る瞬間、その闇に向かって曽良はひっしに跡を追う。
「薬草探しの身ゆえ、ちと、手加減なさりませんと」
「病み上がりの河合様にはちと、きつう御座いましたかなあ」
「瀬音に騙され腰まで水に浸かりましたわい」
「左様で、昨夜の雨ですっかり川筋が変わり申した。拙者もこの通りです。」
「しかし、この大気のすがすがしさは格別ですなあ。」
「それを生み出すわ、お山の恵み。此処では鳥も魚も生き生きしておる。」
九谷の里からは、もはや一里ばかりは遡ったであろうか、川面の靄はいつの間にか姿を消し、水滴を含んだ緑の木々がキラキラと輝いている。小笹を踏み分け、谷に沿うように進み、再び谷に入る。左方に黄樹が広がり始め、前方から瀬音と共に、瀬音をかき消す響音が谷間一面に轟き渡る。
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by hirai_tom | 2010-03-17 12:12

6-6   

2010年 03月 15日

「さてさて、前田家同様に後藤家もさるもの、中々に尻尾は出さぬ訳だ。」
 「河合様、尻尾は九谷の神社に奉納されて御座います。お気が付かれませんでしたかな。」
 「社に奉納とな・・・・。九谷では二社を拝したのだが、・・・さすれば、田村権左右衛門銘のあの御神酒徳利。」
 「左様、明記されている明暦元年六月廿六日は、柿右衛門の還暦祈念に御座います。その上、念を入れ十字を忍ばせて在り、十六日とも読み取れます。」
 「之は参りました。参りましたな。やはり後藤は伝説造りの名人じゃ。御師匠の言われる通りで御座いました。」
 「所で、その後、肥前はどの様に対処成されました。」
 「左様、二代柿右衛門までは此方に。その後、柿右衛門窯は一時途絶えましたが、残された十人の女工と奥方で持ちこたえ、此方にない赤絵が生まれました。無論、此方からの援助は当然、御座いました。」
 「さすれば、柿右衛門と九谷は夫婦であり兄弟でもあると云う事になるか。」
 「驚きましたな、道理で柿右衛門の絵皿は女のように美しい。一方で、後藤の皿は男の強さがある。」
 「利常公は只者では御座いませんでした。まだまだ驚くべき事は御座いますが・・・、切りが御座いませんから、まあ、この位にしておきましょうか。」
 「そろそろ、雨は上がりましたかな」
「さあて、夜も更けて参りましたな、早々に今夜は切りにして明日の奥山行きと致しますか。」
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by hirai_tom | 2010-03-15 07:29

6-5   

2010年 03月 13日

「左様で御座いますなあ。しかし、疑う訳では御座らぬが、弥三右衛門が柿右衛門とは、これは拙者にはちと、解せません。」
「柿右衛門を名乗るは後の事で御座いましてな、始めは喜三右衛門と申しました。この“喜”の字には、ほれ、はっきりと吉次の“吉”が挿入されて居ります。その後、加賀の一字を加え加喜右衛門とした後、初代酒井田柿右衛門が誕生するという事で御座います。何せ、裏には加賀藩が付いて居ります故、資金には事足りませんからな。動かぬ証拠は、“最初に出来上がった色絵の南京物は、加賀藩の御買手が購入した“と柿右衛門家の史料には御座いますから、御調べなさるがよいかと。さて、これで御納得されましたかな。」
 「さあて、これは恐れ入りました。後藤一族は奥が深くて、吾等には皆目。お師匠が以前に、おっしゃられた事がこれでようやく解りましたわい。」
「ところで、権十良様は何時まで、田村様で通されるのですかな。」
「ああ、これも参りましたなあ。拙者にも分かり申さん。帰藩した父弥三右衛門が、酒井田村から“田村”権左右衛門と名乗りました故、ほとぼりの冷めぬ内はと思っているのですが。まあ、そろそろ此方での役目も終える事故。京に戻れば、田村姓はいずれ幻と成ろうかと。」

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by hirai_tom | 2010-03-13 00:52