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5-3   

2010年 02月 27日

「さあさあ、後ほどに街辺を案内していただくとして、曽良と共に先程の御話の続きをお聞かせ下され。」
 「田舎者の話で恐縮いたしますが、吾らが祖は能登の穴水に居を構えていた長谷部氏の縁の者たちで、長氏を名乗りこの湯を護ってまいりました。」
 「数寄者が多いのはその辺に御座るな。御祖父様の名声は我等にも届いております。詳しくお聞きしたいものです。」
 「はい、洛の貞室様がまだお若い時のことで御座います、吾宿にお泊まりなされて居られまして、御愛用の琵琶を奏でておられました。」
 「成程、師匠も此方にお泊まりなされたのか。私も曽良も、師匠にはぞっこんでな、一昨年の鹿島詣は貞室様のいざないによって詣でたようなものです。吉野に遊んだ折には、“これはこれはとばかり花の芳野山”の句にただただ脱帽致しましたわい。左様、琵琶もたしなわれたと聞き及んでおります。」
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by hirai_tom | 2010-02-27 18:48

5-2   

2010年 02月 26日

北枝は曽良の動向がどうも気になるらしく、部屋から飛び出してきた。
 「どちらにお出掛けで御座いましたか、御身体がすぐれないとお聞き致しておりましたのに。」
 「これはご心配をお掛け致しました。薬草探しで随分と手間をとりました。御蔭で腹痛も忘れるほどでな、昨夜のだら長湯が効いたようですわい。御師匠の持病も逗留されれば効果もございましょう。」
「御当地は、山並みが迫って霊気にあふれている。その上、湧き湯が正に名湯と言える。湯上がりで未だに身体が火照っているようだ。曽良の言う事も一理あるかのう。さあ、それよりも自笑様がお待ち兼ねですよ。」
「これは河合様、御噂はかねがねお聞き致しております。はじめて御目にかかります。久米之助の義兄、出蔵屋自笑に御座います。」
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by hirai_tom | 2010-02-26 01:55

5-1   

2010年 02月 23日

権十良と別れ曽良、巳の刻、泉屋へ戻る。

「あっ、曽良様。曽良様がおもどりなされましたよ。お帰りなさいませ。これはまた、随分とお召し物が汚れて。」
「ほれ、薬草探しでこの通りじゃ。あっはっは、あっはっは。」
「皆様御心配なされて、北枝様はもう何べんとなく出られたり入られたりでございます。」
「左様か、お師匠様には断りを入れてあります程に。」
「ささ、御身足を洗われて、皆様お待ちかねでございます。」
「誰ぞ来客かな。」
「はい、当家の御親戚筋の、出蔵屋様が」
「おう、噂に聞いた出蔵屋自笑。こちら様の御兄上と聞いたが」
「はい、この泉屋の御姉様が嫁いでおられます。」
「久米之助様に俳諧の手ほどきをなされたお方かと、これはすぐにでもお会いせねばなるまい。」
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by hirai_tom | 2010-02-23 18:29

4-10 「古九谷」 余滴  ①-②   

2010年 02月 21日

あれから8年、九谷を通る際には決まってこの神社を訪ねるようになった。今日も天気は上々、子ども達をだしに川遊びをし、オロロ(アブの一種)に追われながら山に入る。
今、茂った木々の間からは窯跡は見られず、その間道をいたずらにダンプが通り過ぎる。そこには、九谷をこよなく愛した頑固な古老の姿は見られない。歴史は非情であった。「ダム行政」、彼等の前には心ある人達も変人と化すのだ。この九谷の里と同様に「古九谷」も又、その危機を常に孕んでいる。
ある人は、「古九谷」は幻のままが良いと云う。確かに謎を秘めた美は魅惑的ではあるのだが、その美しさゆえに踏みにじろうとする人たちがいる。“何、古九谷、あれは有田産ですよ“と云う具合である。出土品でしか評価出来ない学会にとっては、美の本質はどうでもよい、否、わからないのだろう。彼等のスタートは発掘であって「古九谷」に魅せられてのものではないからだ。美術館の最高峰である東京国立博物館が又、お粗末である。訳のわからぬ学会に押し切られ、世界に誇れる”アート“を「古九谷様式」として「古伊万里」(アルチザン)の範疇に組み入れてしまった。地方の美術館も権威に恐れて右へ倣いと云う、何とも変な官僚国家である。
権威とは一体何なのか。そんな事を考えながら九谷らしき所を跡にした。
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by hirai_tom | 2010-02-21 22:45 | 余話

4-9 「古九谷」 余滴  ①-①   

2010年 02月 21日

                 1992.9.11 (中日ホームニュース掲載記事より)    
河原のグリ石が山腹に沿って段を造り「く」の字形に階を成している。谷水が山草の間を縫うように走り、苔むしたその石段が歴史の深さを感じさせる。「く」の字の中程で湧水をすくう。子どもらは待ちきれず走り出した。逸る心で段を登り詰めると、古びた社が“ようござらした”と迎え入れる。
私は「古九谷」への思い入れも手伝って九谷の三柱神社が好きである。初めてこの神社の階段を登ったのは、昭和59年の「古九谷修古祭」であった。木々の間から古窯跡の稜線がくっきりと見え、小奇麗な雰囲気が里人の手で演出されていた。江戸時代初期、才次郎や権左右衛門達が、この場所で燃え上がる炎をじっと見つめていたに違いないとその時思った。                             (つづく)   
        
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by hirai_tom | 2010-02-21 22:38 | 余話

4-8   

2010年 02月 20日

「我らが九谷での南京焼もそこらからが受難の始まりでな。利治公が死去された折、吾が再従弟の才次郎定次が御門前に駆け付けたのだが、体面は許されなかったと聞いております。内輪でしか始末出来ぬ仔細があったやもしれませぬ。」
「成程、中々意味深き話だが、何れも今は昔の事柄、我らが詮索も大事には至らぬだろうぞ。」
「さあて、奥山とはいえ空が白図んで参りましたわい。河合様、この奥はまた後日と云うことで、ここらで退散を決め込みましょう。」
「この刻故、出来れば村人には出会わぬほうが得策なのだが、あの山手に見える社がちと気になってな。社を最後と致そうかと。」
「その間に、拙者は貴殿たちの薬草を取り繕っておきましょう。」
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by hirai_tom | 2010-02-20 00:20

4-7   

2010年 02月 18日

「左様、将軍家にとっては何かと気になるところでな、面白き逸話がある。三代家光公の御代のことじゃが、大聖寺藩主利治公が拝謁した折。父、加賀守は健在かと聞かれ、健勝にして休息をとっておりますと答えると。重ねて問うが、何をいたして休息かと。封土の仕置を専らにと利治公。さらに、家光公問うて、仕置のとき何事を致すやと。利治公、そは、古法を第一に格守せりと。そこで、さらに家光公が追求し、古法のうち何事を専らに致すやと。将軍家の再三の上意に、利治公、古法のうち切支丹宗門の取り締まりを第一とせりと答えるや退出してしまわれたそうだ。」
「利治公も答えに窮された処置故やむなき事。しかし、家光公にはさぞやご立腹であったろう。はて、利常公に続くように、利治公が早去なされたのはそのあたりにあったものか。」
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by hirai_tom | 2010-02-18 01:19

4-6   

2010年 02月 16日

「その後、キリシタンへの弾圧が始まるということだが、下々への弾圧は意外と簡単なのだが、教養のあるものほどこれがちと厄介でな。大名家や御家老、奥方衆に至っては、厄介千万でな。特に、こちらの加賀様には将軍家もほとほと手を焼かれたと我等はきいている。」
「信長公の意志を受け継ぐは、我が前田家だという変な自負がございましてな。三代利常公に至っては、キリシタンを利用してバテレンの国まで手に入れるが信条とされておられた。三代は、なかなかの御仁でな。徳川家と同じく、嫡男は金沢本藩、二男は富山藩、三男は大聖寺藩と三分藩し、自身は、小松の地に家康公のように隠居を決め込み、次の世を捉えていたとのことだ。将軍家を欺く多め、御前に出られる時は鼻毛を伸ばし、バカ面を決め込んでおられたらしい。」
「成程、それで少し納得がいくわい。あの小松の構えは異国に向かっていたものか。神社仏閣が水路で結ばれ、海路につながる水城ということか。」
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by hirai_tom | 2010-02-16 18:48

4-5   

2010年 02月 14日

「拙者の河合姓は伊勢長嶋での姓でな、木曽川、長良川の合流地で曽良という訳だが。実は、出自は諏訪でな、ここには、当時、松平忠輝様が蟄居しておられた。まあ、家康公のお怒りで表舞台から降ろされていたという事じゃが、かっては、鬼っ子として徳川家の中では恐れられた存在だった。何せ、後見人が、金銀採掘で飛ぶ鳥も落とす勢いの大久保長安様でな、これがまたバテレン技術の良き理解者ときている。その上、政宗公の息女いろは姫様が嫁いだことで、これは家康公としては後々の火種を消す必要があった。」
「成程、そのことは十分考えられる。忠輝様は秀頼様ともじっこんの間柄、豊臣恩顧の大名、キリシタン大名が加担すれば再び、天下は二分ということになりましたなあ。」
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by hirai_tom | 2010-02-14 18:40

4-4   

2010年 02月 12日

「今回の旅で私がお供に抜擢されたのもそこにある。伊達藩と加賀藩、この両雄藩が今でもキリシタン信者として結ばれているとしたら天下の大事じゃて。」
「そこで、仙台では何かをつかみましたか。」
「さすが伊達様よ、我らの情報は筒抜けでな。大っぴらに、どうぞなんなりとお調べ下さいというところでな。大手門からすべて見ることができた。」
「成程、ところで城以外はどうであった」
「あの松島では、瑞厳寺が狙いどころでな。隅々まで検視をというところだったが、そこは加賀藩同様、事前に手は打たれているだろうから何とも言われぬが、円通院の霊廟三慧殿には、我らにはわからぬ異国のもので飾られていた。左様、お主たちの南京焼にも何か共通する雰囲気を感じたが、何せ、政宗公、家康公のお血筋の眠っておられるところでな。その上、あからさまにあのように見せられては、我らの恐れいるところで遺憾し難い。」
「加賀様同様、今は過去の遺物というところか。」
「何れの藩も同様でな、異のあるところは三代までか。」
「しかし、念には念をとの、さるお方の御依頼がある。」
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by hirai_tom | 2010-02-12 00:40