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3-3   

2010年 01月 31日

「お二方様、さぞ、お疲れの事で御座いましょう。田村様、吾等はここら辺りで御遠慮致しましょうか。」
 「何、お主、田村とな。後藤才次郎ではなく、田村とな。」
 「左様で、名は所にて、如何様にも変わるものと」
 「田村と云えば、九谷の南京焼は後藤ではなく、田村権左右衛門の手だとの専らの風評だが、あの田村・・・。さすれば、お主の父君とは・・・。」
 「ま、そうゆうことじゃ。俺はここでは、田村権十良。ま、後藤権十良でもかまわぬのじゃが、お主も知ってのとおり、隣の福井では、ほれ又、違うてのう。」
 「所変われば品変わるは、お主の口ぐせぞ。」
 「相も変わらずじゃて。」
 
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by hirai_tom | 2010-01-31 07:26

3-2   

2010年 01月 29日

才次郎が屋敷に消え、半時も過ぎたろうか。
 「随分と話が弾んでおられますなあ。」
 控えにいた曽良と久米之助が二人の話に加わるように座敷に入った。
 「京、江戸と昔の事で話が尽きぬわい。こ奴も久しう間に、ほれ、たちまち老いぼれた。」
 「何々、ほれ、この通りぞ。主と違うて俺は不死身ぞ。」
 「やはり、お二人様の中には吾等には、ちと、入りきれませんなあ、河合様。」
 「左様にて候。」
 と、曽良は深々しく頭を下げる。四人は会心の笑みを持っていた。久々の心地よい笑いである。
 「所で、北枝は如何している。大丈夫かな。」
 「はい、ごゆるりとお休みで御座います。」
 「お師匠を無事にお護りなされ、お疲れが出たので御座いましょう。」
 「刀研師故、御油断召さるな。奴がいると、どうも動きがとれぬわ。仮病で逃げるしか手だては無いわい。」
「左様か、心して当たらねばならぬな。しかし、奴の持ち歩く杖にはたまげたぞ。」
 「左様で、北枝様の持ち歩く杖は、此方にまでもお噂が届いて居ります程に」
 内輪の笑いは、何時までも止むことを知らぬようである。
 
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by hirai_tom | 2010-01-29 18:17

3-1   

2010年 01月 28日

 あれから十余年の月日が流れていた。
 加州山中湯、泉屋の奥座敷、その板戸を開けた芭蕉は闇の中、岩陰にひっそりと身をかがめ跪く男を捉え、一瞬、身構えた。
 「お主、才次郎か。」
 「いかにも。」
 答える男の声は才次郎に違いなかった。
 そうか、今の俺は奴にとっては昔の桃青ではないのか、ふと寂しい想いが胸をよぎる、と、それを見透かしたかのように、すーっと芭蕉の目の前に近づいた男は、その面を上げ、にやりと笑った。
 「こやつ、人をからかいおって。早よう上がれ、誰ぞに見られぬうちに、さあ、早よう早よう。」
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by hirai_tom | 2010-01-28 18:19

2-12   

2010年 01月 27日

俳聖松尾芭蕉としての名声が加賀の才次郎の許に届くには、それ程の時を要しなかった。その句を風の便りに聞いた才次郎は、桃青が押しも押されぬ俳諧宗匠としての道を歩き始めたことを確信した。
 “古池や蛙飛びこむ”に続く“水の音”には、彼等にしか掴み得ない感性があった。
 
 かって、彼等達の祖を動かしていた人物は、小堀遠州公であった。幕府の伏見奉行であり、藤堂高虎公とも姻戚関係にある遠州公が造園師・茶人として桂離宮をはじめ、各大名家の庭園造りを手掛けている裏にはそうした背景があった。彼は利常公の依頼で加賀の地にも度々訪れている。祥瑞五郎太夫も又、遠州公の命により渡明し後、“肥前””九谷“に大きな影響を及ぼすのである。遠州亡きあと、藤堂藩は久々に俳聖芭蕉という大きな情報集団を育て上げたのである。

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by hirai_tom | 2010-01-27 01:33

2-11   

2010年 01月 25日

その後の桃青は一段と句に磨きがかかって行った。物を見る目に変化が生じてきていたのである。彼等に共通するものは“潜む者”が掴み得る習性であった。彼等は、じっと息を殺して潜む生活の中に“音”を捉えていたのである。
 いまひとつ、桃青が彼等の絵皿から得たものは、余白の持つ不可思議な美しさにあった。初めて、そうした皿に触れたとき、それは、白磁の素地の美しさを効果的に現わす手法であり、水墨画の影響かとも見たのだが、如何にもそれだけでは無さそうであった。木々の間から捉える空間の持つ不思議な広がり。水溜りかそれとも雪渓なのか、その不確かな空間に位置する凛とした鳥。それらは、彼等が求める神・仏の世の表現でもあった。
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古九谷の名品
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by hirai_tom | 2010-01-25 18:37

2-10   

2010年 01月 23日

「おう、あの画が守景。そうか、そうだったのか。左様か、あれは並みの手ではないと見たが、守景であったのか。俺があの絵皿から掴んだものは大きいぞ。まさにあれこそ太公望じや。あの釣り人、韓人のようだったが。優雅にボラを待つ釣り人の向こうから浮き浮きと脚早で歩いてくる若者の話し声が今にも聞こえそうだった。これから、さあ、あの二人は連れだって何処へ遊びに行くのやら。そこら辺りをさらりと描くとこなんぞは見事という外はない。やはり狩野派を飛び出すほどの男よ。俳諧の極意も正にあれでなくては。」
 「そうか、お主も左様に思うか。」
 「所で、何ぞあったか。久隅は既に加賀にはいないのか。」
 「本藩と大聖寺藩の確執ぞ。」
 「お家の事情と云う奴か。」
 「そうよ、俺もそろそろ身の置き所を考えておこうと思ってのう。」
 「しかし、それがお主の狙いではなかったのか。」
 「む、そこが我が身の辛さよ。お主も今にわかる時が必ず来る。使命は第一ぞ。おかげで誰にも負けぬものはつかみ得た。しかしのう、そうなるとつらい。俺をしたって周りが動き出すのよ。何も知らぬ者までもがな。左様、誰をだますといっても身内を欺くは辛い。このまま消えようとさえ思う事がある。近頃は里心で京や肥前に帰るものも出る始末でのう。」
 「今の主の悩みはそれか」
 「因果応報ぞ。頼りにならぬ子孫を持ち、御先祖様もさぞ悲しんでいよう。その内、お主が御本尊様に見える時が来るやもしれぬ。その折にはよしなに頼むぞ。」
 才次郎は大きく笑った。それが才次郎との江戸での別れであった。
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by hirai_tom | 2010-01-23 07:42

2-9   

2010年 01月 21日

「のう、お主とはしばしの別れやも知れぬぞ。」
一瞬戸惑う桃青に
「少々、野暮用がおきてのう。」
「やゝでも出来たか。」
「む、それもある。が、それはさておき、近頃のお主、随分と腕を上げてきたよのう。」
「俺の句に息吹を与えたはお主ぞ。」
 「いやいや、俺はのう、我等が集団の力を自慢したまでの事よ。それもこれも皆御先祖様の汗と涙の賜物よ。吾等が代になるともう愚痴ばかりじゃて。特に守景が去った今では先代に肩を並べるものはちと出来ぬわ。これからはお主の時代じゃて。風の便りに名句を待つこととしょうぞ。」
 「簡単にお主は云うが、金屋(後藤)の小判造りとはちと違うぞ。所でお主、守景というとあの久隅守景か。そうか、やはり加賀にいたのは本当だったのか。」
 「そうよ、俺が連れてきた。我等が皿が気に入ってのう。どうしても筆を取りたいということであった。この男なら先代と並ぶ画を描くと踏んだのよ。値違わず大した男よ。ほれ、以前お主にも見せたよのう。ボラ待ち櫓の絵皿ぞ。能登の穴水の漁法よ、四角に組んだ網を川底に沈め小魚を獲るあれよ。」
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by hirai_tom | 2010-01-21 08:37

2-8   

2010年 01月 19日

桃青にとっては皆目見当が付かない大きな集団の流れの中に、才次郎達の名が見え隠れし、それが才次郎であるかと思うと藤四郎であったり兵四郎であったりする。これは藤原氏の名を使った後藤集団の流れなのかと思ったりもする。現に、加賀で名を刻む才次郎は、藤原朝臣後藤才次郎と使わず、藤原朝官後藤才次郎と名乗っているのだ。つまり、俺は単なる前田家の臣ではなく、徳川家の官をも兼ねているのだと云わんばかりの態度であった。
才次郎の語る闇の世界は桃青にとっては無縁のものでなければならなかった。今の彼の立場は一流の俳諧師への道だけであった。
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by hirai_tom | 2010-01-19 00:32

2-7   

2010年 01月 17日

 後藤の技術集団に目を付けた前田家は、流石と言わざるを得なかった。徳川の世が安定してくると、文化の担い手としても後藤家の技術は脚光を浴び、技術者の移入は一層頻繁なものになっていた。彼等は京都、江戸、金沢と云うように、当初は一年毎に移動していたのだが、徐々に何れかに居を構えるに至っていた。
 加賀藩の後藤集団は浅野屋次郎兵衛、金屋彦四郎等によって采配され、脇後藤として越後から市衛門の系統を加えた才次郎の流れは、九谷鉱山・九谷焼の系譜に連なって行くのである。それは又秀吉、家康と続く後藤情報集団の加賀藩移行でもあった。
 三代加賀藩主前田利常は全てのことを承知の上で後藤家の導入を計ったのである。富山藩、加賀本藩、大聖寺藩とそれぞれに名を残す彼等の祖先たちの足取りは、利常公を中心とした緻密な連携策によってなされていった。彼等が利常を助け、そのことが徳川家を補佐するという二重性がそこにはあった。
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by hirai_tom | 2010-01-17 18:28

2-6   

2010年 01月 15日

ある時、桃青はふと、それらの皿の中に“音”があることを感じ取っていた。“百花”と呼ばれる縁取りの草花の絵の中には鳥のさえずり、雑草の中の虫のざわめき、魚が飛び跳ねる音、見込みの絵からは時には人の話し声が聴こえたりもする。桃青はうれしくなった。己の句の中に欠けているものがここにはあったのだ。
彼等の技術は確実に、より造化をつかんでいた。そうか、句に広がりを持たすには、この細やかな造化を観る目が生きてくるのか。そして、この驚くべき感覚は、我等潜む者が持ち得る習性なのだ。桃青の身体に思わず戦慄が走っていた。
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by hirai_tom | 2010-01-15 18:33