カテゴリ:余話( 4 )   

7-13   

2010年 04月 07日

   ②-②
乳白手の初期柿右衛門を彷彿させる「古九谷色絵鷲猿図平皿」と、金工後藤家宗家七代顕乗1586~1663年(加賀では弥三右衛門吉次とも1584~1665年)作「鵺退治図・小柄」は共通の感性を持った作品です。目を丸くさせ、手足をばたつかせる“猿と鵺”。鋭い眼光、高い鼻筋、擬人化された“鷲・武士“。こうした非現実的表現は現代のシュ~ルレアリスムにみられるものであり、同時期にこうした感性を持つア~チストは二人とはいなく、同一人物の作と考えられます。 
つまり、後藤弥三衛門吉次は、三代利常公の放った隠密であり、十年の歳を偽って酒井田円西の娘婿になり一子相伝の秘伝を得ます(後、妻子を捨て帰藩の伝承あり)。当然、スポンサ一は利常であり、肥前で最初にできた色絵磁器は加賀藩が買い上げています(喜三右衛門「覚」にあり)。酒井田家は、代々キリシタン大名のもとを転々としています。又、彼らに染付白磁の技術を伝えた高原五郎七もキリシタン容疑で肥前を出卉しています。
 帰藩した初代酒井田柿右衛門(始め、喜三右衛門。後、加喜右衛門1596~1666)=後藤顕乗=後藤弥三右衛門吉次は、田村権左右衛門として九谷に入り築窯します。
さて、初代柿右衛門達が肥前を去ると、今度は女性たちの出番となり、赤を基調とした繊細な今日の「柿右衛門」が生まれます。
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by hirai_tom | 2010-04-07 21:16 | 余話

7-12   

2010年 04月 07日

「古九谷」  余滴           ②-①

「古九谷」を”柿右衛門様式””古九谷様式”として「古伊万里」の範疇に組み入れた、元東京国立博物館・陶磁室長の矢部良明氏は、著書『世界をときめかせた伊万里焼』の中で“初代柿右衛門はどのような色絵を完成させたのであろうか、得られた結論は、赤絵具を極力控えめにして濃厚な緑・黄・群青・紫などの上絵具を使った世に「古九谷」と呼ぶ色絵こそが、最盛期の伊万里の色絵であった”と結論づけている。
 この様に「古九谷」と「初期柿右衛門」は、謎のべ~ルに包まれています。私は、同時代にピカソの様なア-チストは何人も出ないという観点から、初代柿右衛門(始め、喜三右衛門)<1596~1666年>と九谷焼の田村権左右衛門は同一人物であり、後藤家の中に、これらに比定される人物が必ずいると考えています。
後藤家は、足利義政に仕えた初代祐乗に始まり、代々金工師として認められ後、織田・豊臣・徳川と、時の権力者の求めに応じ貨幣鋳造に関わっていきます。徳川期に入ると、技術者が定着し、京の上後藤家、江戸の下後藤家、金沢の加賀後藤家がそれぞれ生まれます。こうした中、後藤家は、本阿弥家・狩野派等と深い姻戚関係で結ばれ、卓越した技能を不動のものとしていた。                   (つづく)
          
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by hirai_tom | 2010-04-07 00:57 | 余話

4-10 「古九谷」 余滴  ①-②   

2010年 02月 21日

あれから8年、九谷を通る際には決まってこの神社を訪ねるようになった。今日も天気は上々、子ども達をだしに川遊びをし、オロロ(アブの一種)に追われながら山に入る。
今、茂った木々の間からは窯跡は見られず、その間道をいたずらにダンプが通り過ぎる。そこには、九谷をこよなく愛した頑固な古老の姿は見られない。歴史は非情であった。「ダム行政」、彼等の前には心ある人達も変人と化すのだ。この九谷の里と同様に「古九谷」も又、その危機を常に孕んでいる。
ある人は、「古九谷」は幻のままが良いと云う。確かに謎を秘めた美は魅惑的ではあるのだが、その美しさゆえに踏みにじろうとする人たちがいる。“何、古九谷、あれは有田産ですよ“と云う具合である。出土品でしか評価出来ない学会にとっては、美の本質はどうでもよい、否、わからないのだろう。彼等のスタートは発掘であって「古九谷」に魅せられてのものではないからだ。美術館の最高峰である東京国立博物館が又、お粗末である。訳のわからぬ学会に押し切られ、世界に誇れる”アート“を「古九谷様式」として「古伊万里」(アルチザン)の範疇に組み入れてしまった。地方の美術館も権威に恐れて右へ倣いと云う、何とも変な官僚国家である。
権威とは一体何なのか。そんな事を考えながら九谷らしき所を跡にした。
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by hirai_tom | 2010-02-21 22:45 | 余話

4-9 「古九谷」 余滴  ①-①   

2010年 02月 21日

                 1992.9.11 (中日ホームニュース掲載記事より)    
河原のグリ石が山腹に沿って段を造り「く」の字形に階を成している。谷水が山草の間を縫うように走り、苔むしたその石段が歴史の深さを感じさせる。「く」の字の中程で湧水をすくう。子どもらは待ちきれず走り出した。逸る心で段を登り詰めると、古びた社が“ようござらした”と迎え入れる。
私は「古九谷」への思い入れも手伝って九谷の三柱神社が好きである。初めてこの神社の階段を登ったのは、昭和59年の「古九谷修古祭」であった。木々の間から古窯跡の稜線がくっきりと見え、小奇麗な雰囲気が里人の手で演出されていた。江戸時代初期、才次郎や権左右衛門達が、この場所で燃え上がる炎をじっと見つめていたに違いないとその時思った。                             (つづく)   
        
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by hirai_tom | 2010-02-21 22:38 | 余話