カテゴリ:未分類( 122 )   

「古九谷余滴」 ⑪   

2013年 12月 04日

 九谷古窯群(1号・2号窯・吉田屋窯)の在る「九谷A遺跡」から真砂に向かって進む、渓谷が二手に分かれ
左手を遡る。谷を覗きながら30分程歩く、途中見上げると”ツル梅擬”が!山道沿に”冬イチゴ”。子供の頃、
山に遊び、よく食した懐かしい味。歩きながら摘む。酸っぱいが美味しい。前日に雨が降ったせいか、瀬音が
響く。そうこうするうちに”千束ヶ滝”が飛び込んでくる。
 かって、滝に沿って”焼き付け坂”が存在した。地元の人達はその様に呼んではいるが、窯跡を隠す為のものと私は思う。一部が旅館の踏み石に使われたり、磁土に近い物だ。今は跡かたが見られない。
 「滝の上もん」と古窯の伝承が伝わるのみ。滝の上に出る。対岸に石積みの跡。
 この上流に”女郎ヶ滝”が在るが、道が塞がれている。川沿いに進めば良いのだが、今の時期は無理に思う。
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    まゆみ
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    紫式部の様だが違う。山ふたぎ?
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by hirai_tom | 2013-12-04 18:43

13-6   

2013年 04月 29日

13-6

「去れど、父権左右衛門も、京・加賀・江戸・肥前と体が幾つ在っても足りませぬ故、下絵は狩野派の絵師に。」
「左様か、利常公の肝煎りともなれば絵師には事欠かぬか。」
「左様。利長公を祭る高岡瑞龍寺には、探幽・尚信・安信と挙って狩野一族が出向いて居ります。去れば、絵皿の下絵にも尚信様の手の物が。」
「何々、狩野尚信は突然、消息を絶ったとは聞いてはいたが、此方に来て居たのか。さては、お主等の焼物に余白が目立つは尚信の影響だったか」

 
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色絵古九谷 鳳凰図平鉢 石川県立美術館     狩野尚信 大判錦絵 雄鶏 
【狩野尚信】
   通称 主馬   号 自適斎
   小堀遠州と親交あり。慶安三年(1650)失踪説あり。

                
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by hirai_tom | 2013-04-29 15:04

「古九谷」余滴  ⑩一②  伝承に見る「古九谷」   

2013年 02月 15日

      
       「古九谷」余滴   ⑩一②     伝承に見る 「古九谷」 

 たとえば、”才次郎が吸坂の陶土を九谷の窯で焼いた”では「吸坂手」が、磁器を焼いた登窯で同時に窯入れされていたことがわかります(発掘でも明らかです)。
 又、”田村権左右衛門と後藤才次郎が、伯父・甥の関係”から、田村権左右衛門は後藤家の人間であることが推定されます。
 面白い(興味のある)話としては、柿右衛門親子(父と身ごもった娘)が大聖寺まで才次郎を追いかけてくること。そして、大聖寺藩主から柿右衛門に対して”謝礼あり、種々賜り物などあり”等ともあります。
 
 物造りにおいて、特に先端技術を得ることは、容易なことではなかったと思われる(当時は当然、一子相伝であり、今日でもその名残はある)。”他国者に磁器の技術を伝えることを禁じた、いわゆる禁制は、前田利明が没した翌年の元禄六年に発布されており、その頃にはすでに古九谷は廃絶していた”(地元学芸員)。との見解があるが、禁制を出さねばならなくなった経緯が、どの様であったかが問題点だろう。
 いずれにしても、当時の世界での先端技術の伝播は、今日では想像のできないものであったろう。今日まで残る、有田・九谷・姫谷(三・色絵磁器地)に共通する『轆轤の右回し・左削り』を見るとき、何故か朝鮮式ではない。陶器の産地では思い掛けない、この一致は興味のあるところである。 つまり、当時の最先端の色絵磁器技術の取得は、限られた範囲で行われたと見るべきではないのか。そして、此の事は、同一人物(同族)の三・産地移動を意味するものではないのか。  
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by hirai_tom | 2013-02-15 15:49

「古九谷」余滴  ⑩一①  伝承に見る 「古九谷」   

2013年 02月 12日

          「古九谷」余滴 ⑩一①       伝承に見る「古九谷」

 最近『九谷焼濫觴大尾』なるものが民間で発見された。江戸期を通じて伝えられてきた”九谷焼の始まりの講談話”の集大成と言える書物で、明治二七年六月二十日に、岡田重兵衛(行年 七七歳)という人が写し終えたと記されている。
 これは、加賀に伝わる”後藤才次郎は、かの地で一子相伝のため、妻子をもうけて秘伝を得、その後妻子を捨て帰藩”が単に伝承ではなく、又、その内容から「柿右衛門と古九谷」を関連付ける資料として興味をそそるものであります。
 典型的な講談調の創作であり、いわゆる”講釈師みてきたようなウソを言い”の類である(地元学芸員)。との指摘もあるが、全く造話として片付けられるものではなく、江戸後期において庶民は、どの様に加賀大聖寺藩での九谷開窯を認識していたかを知る上で貴重な資料と言えます。
 作中では、①大聖寺藩主が二代に渡って九谷開窯に力を注いでいること。。②田村権左右衛門と後藤才次郎が伯父・甥の関係であること。。③才次郎が有田に潜入し、柿右衛門の娘と恋仲になり窯場に携わる事。④他国者に技術を教えることは、御上に対しても窯仲間に対しても申し訳が立たないと柿右衛門が躊躇すること。⑤結果として、才次郎は秘伝を得るため柿右衛門家に婿入りし、子を儲けたこと。⑥肥前の焼物の始まりとして、朝鮮の役で鍋島直茂公の家来、多久長門守が李参平を連れ帰り築窯したこと。⑦正保四年、東嶋徳右衛門が長崎で唐人から彩色の法を習い、南河原の柿右衛門と工夫を凝らし、有田焼を造りだしたこと。等々となっています。
 細部にわたっての誤り、時代考証や登場人物等、史実に於いても不備な面はいがめないが、よく調べてあり、全くの作り話には思われない事柄が出てきます。
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by hirai_tom | 2013-02-12 21:27

「後藤宗家系図」と加賀後藤   

2012年 09月 13日

 
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by hirai_tom | 2012-09-13 01:23

 「古九谷」余滴  ⑨―③  私の「古九谷」   

2012年 09月 12日

   「古九谷」余滴   ⑨ー③     私の「古九谷」

 いわば「古九谷」は、こうした流れの集大成であります。それは「伊万里」の様式化したものでもなければ、景徳鎮のコピーでもありません。そこには、まったく異質の世界観が展開します。それは、専制君主の圧力で出きたものでもなければ、量産志向のためのデザイン化でもありません。そこには、何ものにもとらわれない自由さと、自然を見つめる厳しい感性が息づいています。まさに、天才アーチスト田村権左右衛門の個性が光ります。「古九谷」は実に不思議な世界を形成し、私達に迫ってきます。私はそこに宗教を見ます。より完璧なものを求めた中国陶磁は、日本の文化圏に入り一段と神に近づくことになります。
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by hirai_tom | 2012-09-12 14:43

古九谷余滴    ⑨―②  「私の古九谷」   

2012年 09月 11日

        古九谷余滴   ⑨―②      私の「古九谷」

 造形美に対する感じ方は個々人みな異なっています。しかし、例えば山に登ることによって感じる自然の美しさ、或は、海辺で昇り降りする太陽に感動する。これらは、人間に共通するものです。私達の美意識はこうした経験によって形成されるのですが、この最上のものである自然美は、正に、神の造ったものであり、ここに、人間の創造美への挑戦は、神への挑戦の歴史となって形造られてい行くことになります。
 中国人はそれを陶磁器に求めました。青磁・白磁の素晴らしさは、世界を魅惑します。そして、朝鮮を経て日本に渡ってきたそれらの陶器は、室町から安土・桃山の風土の中で独自の文化を生み出します。それは、茶道の確立にも影響を与えます。秀吉の朝鮮出兵は、結果として”焼物戦争”という指摘もあります。
 こうした土壌の上に、景徳鎮の磁器が上陸します。ここに、東インド会社を通じて「伊万里」が華々しくデビューすることになります。しかし、これはあくまでも景徳鎮のコピイーであり、中国の不安定な政情が「伊万里」を檜舞台にのし上げたに過ぎません。日本の陶磁器の確立には、当時の文化の中心である京文化圏の媒介が必要となります。コピイーによる量産志向の「伊万里」は、あくまでもアルチザン(職人芸)の域を出ないものであり、偉大なアーチストの萌芽は京文化を経て初めて出現することになります。 
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by hirai_tom | 2012-09-11 10:27

古九谷余滴   ⑨   

2012年 09月 10日

    古九谷余滴  ⑨―①     私の「古九谷」
          二十数年前に書いた原稿が出てきたので、恥ずかしながら載せました。

 「古九谷」の存在を知らずにいた私が、何故か縁あって焼物に興味を持ちだし、もう十数年になる。それまでの私は、みやげさんの九谷焼や食器としての瀬戸物でしか焼ものに触れることがなく、周りに氾濫する九谷焼は、むしろ「古九谷」の存在を否定するものであった。
 いつの間にか私は、これらに反発するかのように、越前・信楽・美濃といった土物の世界に興味を覚えていた。そこには土味の面白さがあり、手触りの温かさは心をなぐ和ませるものがあった。しかし、そうした産地や美術館を見て歩くなかで私なりに得たものは、古いものの中に非常に優れたものが多いという事であった。
 そして、中でも一段と他のものを圧して存在していたのが「古九谷」という色絵磁器であった。それは何か心の深遠な部分に触れるものがあり、魂を揺さぶる何かを持っていた。この焼物との出会いは、私の一生にとってまさに画期的な事件であった。
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by hirai_tom | 2012-09-10 14:33

「古九谷余滴」 ⑧ 岡本太郎のいうアート   

2012年 03月 13日

 かって、山中温泉で毎年行われている”古九谷修古祭”でも公演されておられる岡本太郎氏は、著書の『今日の芸術』で、芸術は創造です。だから新しいということは、芸術における至上命令であり、絶対条件です。と述べられています。
 そして、同著で”モダンアート”を二つの系列で説明しています。「古九谷」とは何か!が解るのではと思います。
 
 モダンアート
     抽象芸術(アプストラクト)  一  幾何学的な丸・三角・四角、あるいは、何々だ、ということのできな                          いようなあらゆる形態、それに入り混じる線などが画面を占めてい                           ます。色彩もそれに応じて、リンゴの赤とか樹木の緑というような説                          明的意味を離れた、自由さを持っています。

     超現実派(スュールレアリスム)
                       一  理性、道徳、美などという人間生活の上っかわにあって、時代と場                          所によって常に移り変わったり、基準を失うようなものを徹底的に疑                          い、人間性の奥底に潜んでいる本質をえぐり出し、人間本能の非合                          理性を追求。
                           神話・伝説に登場する化け物、夢物語は非現実的であり、仏像の
                          十一面の顔・千本の手等も、ただの写実よりもはるかに強く私達に                          迫ってきます。
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by hirai_tom | 2012-03-13 21:37

「古九谷」余滴 ⑦   「古九谷」と初代柿右衛門   

2012年 03月 10日

 中国には完璧な陶磁器の歴史があり、日本には「古伊万里」という優れた磁器があるにもかかわらず、何故に「古九谷」は評価されてきたのか、何処が評価に値されたのか、今、改めて考えなくてはならない。
 恥ずかし事ではあるが、我が国の多くの美術館では今日「古伊万里」の中に「古九谷」は分類され、活字化されている。出版物はさることながら、其れが辞書類にまで及んでしまった。
 魯山人・加藤陶九郎・岡本太郎、哲学者の谷川徹三氏等、一見識を持たれた方達は次々と亡くなり、台頭するかのように、立場の上に立とうとする人達が出現している。後の世の人達は、今の時代をどの様に捉えるのだろうか興味が持たれるところです。
 さて、「古九谷」を”柿右衛門様式・古九谷様式”として「古伊万里」の範疇に分類した張本人、元東京国立博物館・陶磁室長の矢部良明氏の功罪は大きいものがあるが、一面、さすがと思われる興味ある指摘を、著書『世界をときめかせた伊万里焼』の中でされておられる。
 ”1640年代の中頃、初代柿右衛門はどの様な色絵を完成させたのであろうか、そう念願して20余年、得られた結論は、国定教科書のエピソードとは裏腹に、実は、赤絵具を極力控えめにして、濃厚な緑・黄・群青・紫などのガラス質の上絵具をたっぷりと使った、世に「古九谷」と呼ぶ色絵こそが、最盛期の伊万里の色絵であった。”とこの様に結論づけている。
 又、矢部氏は同著でこうも述べている。柿右衛門様式の「工芸美」にたいして古九谷様式は「芸術美」である。と 又、別の出版物では、同箇所に「古九谷様式」をうたいながら「古九谷」を表示し、ご自分なりの使い分けをされておられる。
 思うに、発掘物からスタートした学説は中々変えられないが、本物の「古九谷」に多く接するごとに、アートを”様式化”する愚を感じられたのでは? 
 発掘品からスタートしている今日の多くの学者たちは発掘がすべてであり、それに裏付けされた学説がすべてであります。その結果、アートである「古九谷」をかれらは平気で”古九谷様式”として分類してしまう。
 自国の優れたアートを”様式”として組み込み、自説のためなら平気で自国の財産価値をすり減らす国家公務員。その上、東洋陶磁学会という考古学者の多い団体が出来が悪い、彼らにとっては発掘品がすべてであり、人文科学は二の次である。彼らの結論は一見解として参考意見に留めるべきはずの文化庁も右に倣えが今日の状況である。
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by hirai_tom | 2012-03-10 21:08