「古九谷余滴」 ⑪   

2013年 12月 04日

 九谷古窯群(1号・2号窯・吉田屋窯)の在る「九谷A遺跡」から真砂に向かって進む、渓谷が二手に分かれ
左手を遡る。谷を覗きながら30分程歩く、途中見上げると”ツル梅擬”が!山道沿に”冬イチゴ”。子供の頃、
山に遊び、よく食した懐かしい味。歩きながら摘む。酸っぱいが美味しい。前日に雨が降ったせいか、瀬音が
響く。そうこうするうちに”千束ヶ滝”が飛び込んでくる。
 かって、滝に沿って”焼き付け坂”が存在した。地元の人達はその様に呼んではいるが、窯跡を隠す為のものと私は思う。一部が旅館の踏み石に使われたり、磁土に近い物だ。今は跡かたが見られない。
 「滝の上もん」と古窯の伝承が伝わるのみ。滝の上に出る。対岸に石積みの跡。
 この上流に”女郎ヶ滝”が在るが、道が塞がれている。川沿いに進めば良いのだが、今の時期は無理に思う。
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    まゆみ
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    紫式部の様だが違う。山ふたぎ?
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# by hirai_tom | 2013-12-04 18:43

13-6   

2013年 04月 29日

13-6

「去れど、父権左右衛門も、京・加賀・江戸・肥前と体が幾つ在っても足りませぬ故、下絵は狩野派の絵師に。」
「左様か、利常公の肝煎りともなれば絵師には事欠かぬか。」
「左様。利長公を祭る高岡瑞龍寺には、探幽・尚信・安信と挙って狩野一族が出向いて居ります。去れば、絵皿の下絵にも尚信様の手の物が。」
「何々、狩野尚信は突然、消息を絶ったとは聞いてはいたが、此方に来て居たのか。さては、お主等の焼物に余白が目立つは尚信の影響だったか」

 
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色絵古九谷 鳳凰図平鉢 石川県立美術館     狩野尚信 大判錦絵 雄鶏 
【狩野尚信】
   通称 主馬   号 自適斎
   小堀遠州と親交あり。慶安三年(1650)失踪説あり。

                
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# by hirai_tom | 2013-04-29 15:04

「古九谷」余滴  ⑩一②  伝承に見る「古九谷」   

2013年 02月 15日

      
       「古九谷」余滴   ⑩一②     伝承に見る 「古九谷」 

 たとえば、”才次郎が吸坂の陶土を九谷の窯で焼いた”では「吸坂手」が、磁器を焼いた登窯で同時に窯入れされていたことがわかります(発掘でも明らかです)。
 又、”田村権左右衛門と後藤才次郎が、伯父・甥の関係”から、田村権左右衛門は後藤家の人間であることが推定されます。
 面白い(興味のある)話としては、柿右衛門親子(父と身ごもった娘)が大聖寺まで才次郎を追いかけてくること。そして、大聖寺藩主から柿右衛門に対して”謝礼あり、種々賜り物などあり”等ともあります。
 
 物造りにおいて、特に先端技術を得ることは、容易なことではなかったと思われる(当時は当然、一子相伝であり、今日でもその名残はある)。”他国者に磁器の技術を伝えることを禁じた、いわゆる禁制は、前田利明が没した翌年の元禄六年に発布されており、その頃にはすでに古九谷は廃絶していた”(地元学芸員)。との見解があるが、禁制を出さねばならなくなった経緯が、どの様であったかが問題点だろう。
 いずれにしても、当時の世界での先端技術の伝播は、今日では想像のできないものであったろう。今日まで残る、有田・九谷・姫谷(三・色絵磁器地)に共通する『轆轤の右回し・左削り』を見るとき、何故か朝鮮式ではない。陶器の産地では思い掛けない、この一致は興味のあるところである。 つまり、当時の最先端の色絵磁器技術の取得は、限られた範囲で行われたと見るべきではないのか。そして、此の事は、同一人物(同族)の三・産地移動を意味するものではないのか。  
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# by hirai_tom | 2013-02-15 15:49

「古九谷」余滴  ⑩一①  伝承に見る 「古九谷」   

2013年 02月 12日

          「古九谷」余滴 ⑩一①       伝承に見る「古九谷」

 最近『九谷焼濫觴大尾』なるものが民間で発見された。江戸期を通じて伝えられてきた”九谷焼の始まりの講談話”の集大成と言える書物で、明治二七年六月二十日に、岡田重兵衛(行年 七七歳)という人が写し終えたと記されている。
 これは、加賀に伝わる”後藤才次郎は、かの地で一子相伝のため、妻子をもうけて秘伝を得、その後妻子を捨て帰藩”が単に伝承ではなく、又、その内容から「柿右衛門と古九谷」を関連付ける資料として興味をそそるものであります。
 典型的な講談調の創作であり、いわゆる”講釈師みてきたようなウソを言い”の類である(地元学芸員)。との指摘もあるが、全く造話として片付けられるものではなく、江戸後期において庶民は、どの様に加賀大聖寺藩での九谷開窯を認識していたかを知る上で貴重な資料と言えます。
 作中では、①大聖寺藩主が二代に渡って九谷開窯に力を注いでいること。。②田村権左右衛門と後藤才次郎が伯父・甥の関係であること。。③才次郎が有田に潜入し、柿右衛門の娘と恋仲になり窯場に携わる事。④他国者に技術を教えることは、御上に対しても窯仲間に対しても申し訳が立たないと柿右衛門が躊躇すること。⑤結果として、才次郎は秘伝を得るため柿右衛門家に婿入りし、子を儲けたこと。⑥肥前の焼物の始まりとして、朝鮮の役で鍋島直茂公の家来、多久長門守が李参平を連れ帰り築窯したこと。⑦正保四年、東嶋徳右衛門が長崎で唐人から彩色の法を習い、南河原の柿右衛門と工夫を凝らし、有田焼を造りだしたこと。等々となっています。
 細部にわたっての誤り、時代考証や登場人物等、史実に於いても不備な面はいがめないが、よく調べてあり、全くの作り話には思われない事柄が出てきます。
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# by hirai_tom | 2013-02-12 21:27

「後藤宗家系図」と加賀後藤   

2012年 09月 13日

 
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# by hirai_tom | 2012-09-13 01:23