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「古九谷」余滴  ⑩一②  伝承に見る「古九谷」   

2013年 02月 15日

      
       「古九谷」余滴   ⑩一②     伝承に見る 「古九谷」 

 たとえば、”才次郎が吸坂の陶土を九谷の窯で焼いた”では「吸坂手」が、磁器を焼いた登窯で同時に窯入れされていたことがわかります(発掘でも明らかです)。
 又、”田村権左右衛門と後藤才次郎が、伯父・甥の関係”から、田村権左右衛門は後藤家の人間であることが推定されます。
 面白い(興味のある)話としては、柿右衛門親子(父と身ごもった娘)が大聖寺まで才次郎を追いかけてくること。そして、大聖寺藩主から柿右衛門に対して”謝礼あり、種々賜り物などあり”等ともあります。
 
 物造りにおいて、特に先端技術を得ることは、容易なことではなかったと思われる(当時は当然、一子相伝であり、今日でもその名残はある)。”他国者に磁器の技術を伝えることを禁じた、いわゆる禁制は、前田利明が没した翌年の元禄六年に発布されており、その頃にはすでに古九谷は廃絶していた”(地元学芸員)。との見解があるが、禁制を出さねばならなくなった経緯が、どの様であったかが問題点だろう。
 いずれにしても、当時の世界での先端技術の伝播は、今日では想像のできないものであったろう。今日まで残る、有田・九谷・姫谷(三・色絵磁器地)に共通する『轆轤の右回し・左削り』を見るとき、何故か朝鮮式ではない。陶器の産地では思い掛けない、この一致は興味のあるところである。 つまり、当時の最先端の色絵磁器技術の取得は、限られた範囲で行われたと見るべきではないのか。そして、此の事は、同一人物(同族)の三・産地移動を意味するものではないのか。  

by hirai_tom | 2013-02-15 15:49

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